2010年01月18日

百物語・ガブリエラーゼ /語り手知らず (怪集/2009、投稿)

 
 Caution! 恐怖小説を読み慣れている方なら全く気にならないであろう内容ながら、下記の小説には、人類の愛されるべき一形態へ対する、グロくて残酷かもしれない描写が含まれています。それでも構わないという方のみ、ボタンをクリックして表示して下さい。






 島嶼焼灼作戦が日本列島においても展開された。
 これは世界中で大量発生している巨大凶暴化した蝿の内、日本近辺で活動している個体ら――生息域を広げるための前哨体――を領海内の無人島に誘引物質でおびき寄せ、その後、気化爆弾で殲滅するという作戦だ。成功の報せがニュースで届いた時、我々国民は歓喜で沸き返った。それにより今後一年程は、巨大蝿の群体による本格的な本土襲来を遅延させられるという触れ込みだったからだ。
 そして知るのが遅すぎた。いや、同様の作戦は地球全土で行われていた為、遅かれ早かれ魔手には捕らえられることになったのか。

 ベールゼブブと通称される巨大蝿たちが、ラ・フィン島起源のとある寄生虫を媒介していることが確認されたのは、ハウレスズ・ペストと名付けられた伝染病が各地で猛威を振るい始めてから大分経った後のことであった。
 この寄生虫の特色は、その致死率の高さではなく、『宿主の体内に憶を超える卵を産み付け、その卵は熱すると爆発し、空気中に毒素を放出する』という一点にあった。
 そして日本国民のみならず全人類をパニックに陥れたのは、宿主になっていた巨大蝿たちの体内に産み付けられていた寄生虫の卵は突然変異を起こしていて、気化爆弾で焼かれると同時に毒素ではなく、更なる暴悪な特性を備えるに至った新世代の寄生虫の卵――蝿と寄生虫の両方の特性を併せ持つ――を、あたかも見えざる死の灰の如く、爆風と共に天高く巻き上げるという、厳然たる事実であった。
 この、顕微鏡を使わないと視認できない10μm程度の新卵は熱や放射線に非常に強く、マグマの中でも生き延びると言われている。気化爆弾では大半は焼却しきれず残り、核兵器による攻撃ですら五割を殺せれば上出来なのだという。
 巨大蝿たちへの感染経路は分からない。何故、蝿自身が寄生虫に喰われて死亡しないのかも、不明であった。諸説には、「かつてのラ・フィン島の水没を機に蕃殖範囲を拡大させた、同じ寄生虫を媒介している貝を巨大蝿が補食した(海中の貝を如何なる方法で、陸、空中が主活動範囲の蝿が補食したのか、謎は残る)」「寄生虫と巨大蝿は共生関係にあり、新世代の寄生虫の卵は巨大蝿以外の生物の体内に入って初めて孵化する」など、多々あるが、未だ真相は定かではない。
 ハマダラカとマラリア原虫の関係然り、虫が寄生虫を媒介にすることは自然界ではよくある光景だ。だが、この組み合わせは致命的であった。
 未だそれ以外に有効な攻撃策が見つかっていないというのに、ベールゼブブを焼くと広範囲に撒き散らされ、空気中に微細な粒となって漂う死の卵――風に乗れば、容易く無人島から日本列島全域へと到達する――。それを呼吸して肺胞に取り込んでしまったり、付着した食品を摂取してしまうだけでもアウトなのだ。
 言わば、空気感染する寄生虫。……悪夢である。
 核兵器を用いれば、時として成層圏にまで吹き飛んで地球上を周回し、雲に取り込まれ、雨と共に人間の住まう都市の何処にでも降ってくるという。
 敵性生物を焼灼し尽くす悪魔的魅力に取り憑かれた人類を更なる苛烈な運命へと放り込む嘲弄の病魔、ハウレスズ・ペスト――ラ・フィン島の呪詛、と呼ぶ者もいる。

 便宜上、ラ・フィン・マゴットと呼ばれる新寄生虫の潜伏期間はおよそ一ヶ月。その間、孵化した一部の個体――前哨体と呼ばれる特に小型な産卵に特化したタイプ――が全く苦痛を伴わないで人体内部を活発に動き回り、全身の臓器に少しずつ新たな卵を産み付けていく。時には、血液の流れに乗って移動することもあるらしい。
 また、蟻の実験に見られるような、働き蟻の一部が一定少数の割合で必ず仕事を怠けたという行動とは逆に、そうやって増えていく卵の中から一定少数だけが前哨体となって孵化し活動に加わっていく。不思議なことに、同じ構成の卵から産まれてくる筈でも、早い時期に活動を始める個体のみが産卵特化タイプとして分岐するのだそうだ。
 そして体内の臓器に対する侵蝕率が八割を越えた所で、沈黙していた残りの卵たちも一斉に孵化を開始する。蛆に似た外見を持つ軌攻体と呼ばれる本隊は貪欲で、原形虫と同じく肉を溶かしながら餌が尽きるまで体内を喰い進み、全長5~10cmへと驚異的なスピードで成長をしていく。そうなった場合の激痛は凄まじく、余命は長くて一時間。絶命後も宿主を飽食し続けた呪詛の蛆虫は、食事を終えるとすぐさま蛹化、脱皮。被害者の残骸を真っ黒な抜け殻で覆い尽くして飛び去っていく。
 成虫は蝿に酷似している。憎むべきベールゼブブに。それらがその後、巨大蝿として成長していくのか、はたまたツェツェ蝿(吸血蝿)的な振る舞いを見せて寄生虫の感染を拡大させていくのかは、まだまだ研究段階にあるようだ。
 潜伏期間中、咽頭周辺に集中して卵が植え付けられることで感染者は頻繁に咳き込むようになる。それによって卵が飛び散り、更にハウレスズ・ペストは周囲の人間・家畜へと伝染されていく。

 世界最初の発症地は、ミュリン村だとされている。某国の焼灼作戦実行地にほど近かった農業と牧畜が主産業の閑村である。気化爆弾の人体への悪影響を調べるために丁度現地入りしていたNGO団体の職員が、その瞬間をビデオカメラで捉えて残している。
 映像。村で唯一の円形広場に集まった村人たちが、職員の取材カメラの前で口々に、爆弾が爆発して以降、自分たちの咳が止まらなくなった、と訴えている。もっとも、ラ・フィン・マゴットの前哨体は人間に苦痛や障害を一切与えない為、彼らはそれ以外の面ではいたって健康だ。穿った見方をすれば、補償を引き出すために仮病を使ってごねているようにも見える。
 しかし、そう思っていたとしても、次の瞬間、印象は一変するだろう。
 特に咳き込みの酷かった麦わら帽子の農夫が一人、突如苦悶に表情を歪め、腹を指で掴んで崩れ落ちた。狭い村のこと、ほぼ同時期に感染していたと思しき他の住人たちも相次いで倒れ伏す。撮影レンズが、全員で互いに折り重なって呻き藻掻く瀕死の芋虫たちを映すまでに、さして時間は掛からなかった。近くの家からは泣き叫ぶ留守番の子供の悲鳴や赤ん坊の断末魔に近い絶叫が響いてくる。
 およそ三十分経過。近場の病院に連絡を入れたNGO職員達が必死に看護を続けていると、やがて、農民達の肌の至る所にぶつぶつと親指大の奇怪な黒子が滲み出した。
 まるでタール状の夕立の雨滴が彼らの皮膚だけを狙い打っているかのようだ。
 そして、どす黒く濁った血に濡れて蛆虫が顔を出し、女性職員が金切り声をあげる。
 後は巨大蝿の尾部から蛆の幼虫をスプレイされる蝿蛆症と変わらない。
 外から内に食い破られるか、内から外に食い破られるかの違いがあるだけだ。
 連絡を受けて到着した救援隊が見たのは、広場や畑、牧舎(家畜にも感染していた)にピーナッツ大の墨色の殻が大量に積もって土饅頭を作っている出来の悪いホラー映画のような光景と、夕焼けに向けて一斉に飛び去っていく雲霞の如き寄生蝿の大群。そして唖然とへたり込むNGO団体職員たちの姿だった。
 生存者はいなかった。殆ど皮と骨ばかりになっていた遺体は、稀に肉が残っていたとしてもエメンタールチーズか採掘され尽くした坑道の如く、内部に枝分かれした蛆虫の這い痕が残り、見るに堪えない有様だったという。そのビデオを持ち帰った職員達も感染していたため、数日後に一人も欠かさず、苦しみながらこの世を去った。当時、まだ新寄生虫のことは知られていなかったため、全員の遺体は検屍後、焼却せしめられた。
 報告を受けた軍上層部の頭は、ミュリン村へ『突如飛来した』巨大蝿の残存個体のありもしない潜伏先や、防衛網の見直しにばかり悩まされていたのだという。
 その時点で既にH・ペストの魔手は広範囲に渡って伸びていた。国連機関、政府による情報統制や隠蔽工作なども不可能だった。何故なら、その月を境に同時多発的に世界各地に姿を現し始めた黒死病によって、民衆は今日にも明日にも隣人家族や自分の身で臨床観察を強いられることになったからだ。只でさえネット文化の隆盛で知識の交換が活発に行われている昨今、素人たちの経験則でもおおよその全容は掴めてしまう。安全な地域など、すぐに何処にもなくなった。
 予防は困難を極め、感染拡大を押し留める方策は患者の隔離抹殺以外に無い。治療手段は全く研究されていない。内実が曝かれるにつれて日本においても恐慌状態が出現した。
 感染力の尋常ではない強さ、完全な致死性、平穏な潜伏期間の存在が培う、一秒後には発症するかも知れないという恐怖。この新種の伝染病禍は、人体は言うに及ばず、心をも犯して荒廃させる。皆が疑心暗鬼に駆られた。周囲の人間は既にH・ペストに感染していて自分を巻き添えにしようとしているのではないか、と。
 咳狩り――そんな物までもが現れて、猖獗を極めて吹き荒れた。
 魔女狩りじみた感染チェックは日常茶飯事、暴徒化した群衆が、咳き込んだ者を見つけては携帯電話やメールで連絡を取り合って集まり、リンチにかけて殺していく。
 定食屋で味噌汁に噎せただけのサラリーマンが、店員や他の客から袋叩きにされて殺害された、そんな出来事が笑い話ではなく実際に起きたのだった。その年のインフルエンザの死亡率は例年の十倍、直接的死因のトップは殴殺である。
 そして無知な一部により死体が焼かれ、あるいは遺族が加害者たちへの報復として遺体を焼き、本当に罹患していた者らからの感染は更に拡大した。
 当然ながら巨大蝿感染への関与を疑われたラ・フィン島の元住民達の元には世界中から私的正義の執行者達が集まってきた。その後の結末は闇に包まれている。島民達は移住先である新しい島から忽然と姿を消していたと囁く者もいる。デマインの実も種も持たず身を守る存在価値を失っていた彼らはあえなく撲殺されたと囁く者もいる。昆虫側に寝返って奇怪な奉仕生物へ変貌を遂げたのだと囁く者もいる。反感を爆発させた某大国の不正規戦部隊に拉致されて獄殺されたのだと囁く者もいる。
 余談だが、H・ペストの患者を火葬にすることは出来ない。仕方なく不衛生な土葬(水葬や鳥葬などは、遺体が補食されて媒介生物が増える危険を考えれば、とんでもない!)という形を取るのだが、そこからは本来の黒死病が発生して、また人が死んだ。

 世界レベルでも、H・ペストのこの空挺奇襲作戦には滅多打ちにされてしまっていた。
 死亡者は全人口の四十パーセントを越え、社会機能の麻痺は深刻、ライフラインは悉く破壊され、その惨憺たる有様は水道の蛇口から蛆が出るとすら評された。
 国連の監視機能も低下し、奴らこそ感染源だ、というデマゴークによる民族浄化を止められない。その骸の山を目当てにベールゼブブが襲来、浄化側までもが同じ場所に屍を積み重ねることになった。
 更には、焼灼作戦への忌避による対蝿戦線の後退縮小、消滅。対化学戦防卵装備に身を固めた各国軍隊が個別に通常弾薬や液体窒素フリージングスロウワー、試作超音波兵器にて応戦するも、主力ミサイル類の使用を封じられた状態では勝利は覚束なく、全作戦の実に七割において都市部への突破を許してしまうことに。
 逃げ遅れた住民たちを人柱として巨大蝿に捧げながら、大規模な後退作戦が人類圏全域で行われた。地表の三割を、飛び地状に分布する隔離棲息地域としてベールゼブブに明け渡す羽目になったが、それでも奴らの侵攻は止まらなかった。
 結局、焼灼作戦は再開され、市民には心許ない防毒マスクのみが配られた。

 だが人類とて、ただ座して死を待っていた訳ではなかった。
 特に、蝿の王の名を冠された生物に対する耶蘇教系宗教団体の敵愾心と熱意は凄まじく、ついには地球温暖化で絶滅したとされていたデマインの果実の酵素――件の原形寄生虫を死滅、分解させる地上で唯一の物質――を人工的に生成することに成功したのだ。
 効果は正に、膺懲の一撃と呼ぶに相応しい代物だった。ラ・フィン島起源の寄生虫の特性を得ていた新世代の蛆卵は、それ故に、原形寄生虫の天敵によっても死滅せねばならなかったのだ。感染者が酵素を服用した後、一瞬で全個体が。僅か十分の間に! 残念ながら巨大蝿の撲滅には未だ至れず卵の感染が絶えず続くため、服用は定期的に続けなければならなかったが、この酵素を含有した錠剤の登場により戦いの趨勢は一気に人類へと傾いた。
 開発者達の当然の権利として、錠剤にはガブリエラーゼ(Gabriel+ase)と名付けられた。人類がベールゼブブやラ・フィン・マゴットとの闘争に打ち勝って更に繁栄する新時代の到来を告げる、受胎告知の天使、という意味を込めたのだという。
 現金とも言うが、希望を得た人類は強かった。心ある志士達が立ち上がり、直ちに、ハウレスズ・ペストと戦う地球全域へのガブリエラーゼ配給計画が発動された。
 医薬工場は他の製品の生産を全てストップし、救世主の量産へ向けてフル稼働した。必要な材料や資金人員の調達、巨大蝿からの施設防衛、全ての人類が人種や思想の垣根を越えて手を取り合い、多少の軋轢はあったけれども協力してラ・フィン島の呪詛に立ち向かった。結果、錠剤の普及率をほぼ百パーセントに出来たことは、人類史に誇れる偉業だと思う。
 先を競って薬を手に入れ服用した人々は、計画の完了が発表されると霊長類としての自信や誇りを取り戻し、科学兵器と薬学、それに神の加護とによって、いつかは寄生蛆も巨大蝿も地上から消し去ってみせる、と久方ぶりの歓声をあげた。
 それは、あの時の、島嶼焼灼作戦の成功に沸き返る我々日本国民の姿に非常に酷似していた。

 そして今、私は宕古蠱大学病院の産婦人科の一室にて頭を抱えている。
 出産に至った、とある事情を持つ妊婦と赤子を前に、医師団のリーダーとして。
 目の前の分娩台は破水によって広がった羊水で液浸しになっていた。その中で泳ぎのたくっているのは、大量の蛆虫である。ガブリエラーゼによって死滅させられた筈の。
 ……否。子宮内の羊水は出産直前に胎児から溢れ出した蛆虫によって全体の七割を占有されていた。正確に言えば、分娩台は破水によって妊婦の産道から流れ出してきた羊水塗れの蛆虫の大群で表面を覆い尽くされてしまっている、となるだろう。
 そして、哀れな犠牲者、形容するのも憚られるような畸形の姿で誕生した異常な赤ん坊が、べちゃり、と母親が開脚している股ぐらからこぼれ落ちて肛門付近で俯臥していた。
 母親本人は出産開始直後より子宮から臓器を蛆虫たちに喰われ始めて、たった今絶命した所だ。この一時間、薬品投与や子宮摘出など、考え得る限り最善の手を尽くしたつもりだが、力が及ばなかった。軌攻体が相手だとガブリエラーゼも効きにくいのだ。只でさえ衰弱していた状態なのに、よく保ってくれたと感謝するべきなのだろうか。それとも徒に苦痛を長引かせたことを詫びるべきなのだろうか。いずれにしても、生死の境で懸命に踏ん張っていた彼女が我が子の産声を聞くことは、最早ない。
 この母子は、ガブリエラーゼ服用後に妊娠したケースで行われる出産の第一号だった。その新時代の幕開けに立ち会えることを光栄に思う気持ちは、産まれてくる愛し子の性別を知りたがった母親の要望でエコー検査を行った段階で吹き飛んでしまっていた。
 羊水には若干の蛆濁が見られ、肝心の胎児は、まるで蝿類と同化したかのような、語るも悍ましい姿で成長しようとしていたからだ。
 何が起きたのか、関係機関の必死の研究の末、予測はついていた。
 臨床試験もそこそこに新薬に飛びついた我々の迂闊さを呪うより他はない。結果的に恒常的に人体に投与されることになったデマインの酵素と、それによって死滅し特殊なタンパク質へと分解された蛆寄生虫の卵――特に子宮近辺の物――が、ヒトの受精卵が持っている未分化状態の胚性幹細胞(ES細胞)に悪意のある働きかけを行ったのだ。
 通常、ヒト受精卵は、あらゆる細胞になる可能性を秘めた万能細胞を持っていて、それはOct3/4に代表されるたんぱく質などの働きかけによって、手足や臓器など、胎児の身体になる物へと分化成長を遂げていく。
 Blz666。我々がそう名付けた前述の特殊なタンパク質は、その生体メカニズムに横槍を入れる。何者よりも強く速く無垢なヒト受精卵に取り付き未知の分化を促す形で第二の精子を注ぎ込み、胎児を変質させて畸形にした挙げ句、腹部には滅ぼされたはずの蛆寄生虫の卵を再び大量に構築させて腫瘍として抱えさせるのだ。
 またデマインの酵素は反応鍵を二つ持っていて、ラ・フィン・マゴットの卵を殺す一方で、女性の羊水の成分とも反応し、己を不活性化させる物質を作り出すことが判明した。つまり、妊娠が進んで子宮内に羊水が満ちてくると、その中にいる寄生虫(胎児が抱える腫瘍状態の再生卵)は、殺せなくなる(ラ・フィン島でも、妊婦には貝を食べさせない貝断ちと呼ばれる風習があったという)。加えて、Blz666に変異させられた臍の緒は母親から栄養を受け取る際にデマインの酵素を一切通さず、鉄壁の防護網が形成されてしまう。
 何より恐ろしいのは――、そうした揺籃で育まれたこの赤子が、生物として十全に機能しているということだった。
 見ろ。ガブリエルの祝福を受けてこの世に誕生した筈のヒトの仔が、よちよちと四肢を前後に動かし、蝿の翅を開く。
 ――キチキチ、……チチチッ!
 彼女の本来眼球があるべき位置には巨大なレンズの如き紅い複眼があった。生育段階で追いやられた未発達な人間の眼球が別に、鼻の上、眉の根元に小さな眼鏡のようにちょこんと座って、きょろきょろ、としている。背中には肩胛骨付近から発達して臀部に掛けてまでを覆う蝿の羽が、二枚のマントとなって畳まれている。
 腫瘍化していた蛆の卵を全て吐き出した腹はばっくりと内部を覗かせ割れていて、まるでキューピー人形の腹部を踏んづけ背中まで陥没させたかのようだ。肉を残している両横腹から、開いて突き出た長大な六本の肋骨が台の上に突き刺さり、昆虫の節足の如くカサカサと動き出している。
 ――カチッカチチッン。
 ベールゼブブの影響か、鮫のように尖った乳歯は上下ではなく左右から生えている。それを打ち鳴らしながら、その赤ん坊は歪んだ両手両足を使って、はいはい、を始めた。
 赤子らしいふっくらとしたふくよかな手の平。その指の先端には、爪の代わりに剃刀状の鋭利な突起が生え始めている。肌は人間の皮膚と蝿の皮膚が半々程度の斑模様、一部甲殻に覆われ始めている部分も見受けられる。どうやら、硬い骨の回りを柔らかい肉が覆う運動性に優れた内骨格生物と、柔らかい組織を硬い外殻で覆う保護性に優れた外骨格生物との両方の特性を得ているらしい。
 昆虫としての体節化なのか、首がやや寸詰まりになり、腰の括れが激しくなっていた。
 臀部の双丘は搗きたての餅を摘んで引っ張ったかのようにぐいんと伸びてから膨張し、二本の蝿の尾部になっている。おそらくスプレイも可能だろう。両者の付け根が交差する部位には人間の肛門と性器も見られ、その二穴から次々と新たな蛆虫を産み零していた。
 手首や関節が揃っている腕に比べて、両足は膝までしかない。切除痕に似た瘤状の膝頭から、スパイク状に発達した一本の太い棘骨を生やし、分娩台の柔らかい素材を刺し貫いて、尻を突き上げるような姿勢を取っている。
 ――ブッ、ブブブブブブブ……ッッッ!!
 猟奇的な姿の赤ん坊の背中から、耳障りかつ恐怖の根源に足り得る振動音が響く。
 まさか、飛べるのか? 動物サイズの重量を持ち上げる力があの翅にはある?
 巨大蝿と同じく!?
 中絶に強硬に反対していた同僚の医師が呟いた。これは進化だ、と。蝿の生命力に身体能力、人間の腕の器用さに加えて、もしかしたら知能をも兼ね備えた新人類、「ベールゼブブの堕とし仔」の誕生だと。二足歩行に拘る必要も無いじゃないか、と。
 そうなのかもしれない。Blz666という腐臭漂うエデンの果実を強引に口腔に詰め込まれてしまった人類は堕落しながら生きていく以外に術がないのかも知れない。私には打つ手が思いつかない。
 嗚呼、赤子が咳をしている。きっと、寄生虫の卵を吐き散らしているのだ。思えば彼女は産声を一度もあげていない。代わりにずっと咳き込んでいた。
 いつのまにか蛹になっていた蛆虫たちから一斉に成虫が羽化し、ぶわりと黒い雲となって分娩室の照明を覆い隠した。出口を探して壁にぶつかり回る兄弟姉妹に釣られるように、新世代の赤ん坊もふわりと飛翔する。そして、自分が母体と一緒に搬送されてきた扉の上部に吸い寄せられるように飛んで行き、ごつごつと頭を打ち付け指の鉤爪で隙間を穿り返そうとしながら、ちろりと不満そうに私たちを見た。
 止めろ。お尻をこちらに向けるのは止めてくれ。

 繰り返す。ガブリエラーゼの普及率は現在ほぼ百パーセントである。この母子は特別な例ではない。錠剤の服用とH・ペストへの感染がかち合えば、人間の妊婦は必ず堕とし仔を出産する。
 そして、中核開発者達を失ってマンティス計画が暗礁に乗り上げている今、人類は巨大蝿を焼き続けるしか手がない。焼き続けてラ・フィン・マゴットの卵を爆散、感染を拡大させ続けるしか未来がない。



・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/35.html

○遺伝元
・マンティスの祈り (ベールゼブブの設定を拝借)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/6.html
・楽園 (ラ・フィン島の設定を拝借)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/10.html
・たとえそれが悪魔でも (宗教団体、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/11.html
 
posted by 謡堂 at 22:02| ◆聊枕百物語