2010年01月18日

百物語・虫のある家庭 /語り手知らず (怪集/2009、投稿)

 
・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/25.html

※この作品は傑作選に収録されました。
 
posted by 謡堂 at 22:13| ◆聊枕百物語

百物語・ガブリエラーゼ /語り手知らず (怪集/2009、投稿)

 
 Caution! 恐怖小説を読み慣れている方なら全く気にならないであろう内容ながら、下記の小説には、人類の愛されるべき一形態へ対する、グロくて残酷かもしれない描写が含まれています。それでも構わないという方のみ、ボタンをクリックして表示して下さい。






 島嶼焼灼作戦が日本列島においても展開された。
 これは世界中で大量発生している巨大凶暴化した蝿の内、日本近辺で活動している個体ら――生息域を広げるための前哨体――を領海内の無人島に誘引物質でおびき寄せ、その後、気化爆弾で殲滅するという作戦だ。成功の報せがニュースで届いた時、我々国民は歓喜で沸き返った。それにより今後一年程は、巨大蝿の群体による本格的な本土襲来を遅延させられるという触れ込みだったからだ。
 そして知るのが遅すぎた。いや、同様の作戦は地球全土で行われていた為、遅かれ早かれ魔手には捕らえられることになったのか。

 ベールゼブブと通称される巨大蝿たちが、ラ・フィン島起源のとある寄生虫を媒介していることが確認されたのは、ハウレスズ・ペストと名付けられた伝染病が各地で猛威を振るい始めてから大分経った後のことであった。
 この寄生虫の特色は、その致死率の高さではなく、『宿主の体内に憶を超える卵を産み付け、その卵は熱すると爆発し、空気中に毒素を放出する』という一点にあった。
 そして日本国民のみならず全人類をパニックに陥れたのは、宿主になっていた巨大蝿たちの体内に産み付けられていた寄生虫の卵は突然変異を起こしていて、気化爆弾で焼かれると同時に毒素ではなく、更なる暴悪な特性を備えるに至った新世代の寄生虫の卵――蝿と寄生虫の両方の特性を併せ持つ――を、あたかも見えざる死の灰の如く、爆風と共に天高く巻き上げるという、厳然たる事実であった。
 この、顕微鏡を使わないと視認できない10μm程度の新卵は熱や放射線に非常に強く、マグマの中でも生き延びると言われている。気化爆弾では大半は焼却しきれず残り、核兵器による攻撃ですら五割を殺せれば上出来なのだという。
 巨大蝿たちへの感染経路は分からない。何故、蝿自身が寄生虫に喰われて死亡しないのかも、不明であった。諸説には、「かつてのラ・フィン島の水没を機に蕃殖範囲を拡大させた、同じ寄生虫を媒介している貝を巨大蝿が補食した(海中の貝を如何なる方法で、陸、空中が主活動範囲の蝿が補食したのか、謎は残る)」「寄生虫と巨大蝿は共生関係にあり、新世代の寄生虫の卵は巨大蝿以外の生物の体内に入って初めて孵化する」など、多々あるが、未だ真相は定かではない。
 ハマダラカとマラリア原虫の関係然り、虫が寄生虫を媒介にすることは自然界ではよくある光景だ。だが、この組み合わせは致命的であった。
 未だそれ以外に有効な攻撃策が見つかっていないというのに、ベールゼブブを焼くと広範囲に撒き散らされ、空気中に微細な粒となって漂う死の卵――風に乗れば、容易く無人島から日本列島全域へと到達する――。それを呼吸して肺胞に取り込んでしまったり、付着した食品を摂取してしまうだけでもアウトなのだ。
 言わば、空気感染する寄生虫。……悪夢である。
 核兵器を用いれば、時として成層圏にまで吹き飛んで地球上を周回し、雲に取り込まれ、雨と共に人間の住まう都市の何処にでも降ってくるという。
 敵性生物を焼灼し尽くす悪魔的魅力に取り憑かれた人類を更なる苛烈な運命へと放り込む嘲弄の病魔、ハウレスズ・ペスト――ラ・フィン島の呪詛、と呼ぶ者もいる。

 便宜上、ラ・フィン・マゴットと呼ばれる新寄生虫の潜伏期間はおよそ一ヶ月。その間、孵化した一部の個体――前哨体と呼ばれる特に小型な産卵に特化したタイプ――が全く苦痛を伴わないで人体内部を活発に動き回り、全身の臓器に少しずつ新たな卵を産み付けていく。時には、血液の流れに乗って移動することもあるらしい。
 また、蟻の実験に見られるような、働き蟻の一部が一定少数の割合で必ず仕事を怠けたという行動とは逆に、そうやって増えていく卵の中から一定少数だけが前哨体となって孵化し活動に加わっていく。不思議なことに、同じ構成の卵から産まれてくる筈でも、早い時期に活動を始める個体のみが産卵特化タイプとして分岐するのだそうだ。
 そして体内の臓器に対する侵蝕率が八割を越えた所で、沈黙していた残りの卵たちも一斉に孵化を開始する。蛆に似た外見を持つ軌攻体と呼ばれる本隊は貪欲で、原形虫と同じく肉を溶かしながら餌が尽きるまで体内を喰い進み、全長5~10cmへと驚異的なスピードで成長をしていく。そうなった場合の激痛は凄まじく、余命は長くて一時間。絶命後も宿主を飽食し続けた呪詛の蛆虫は、食事を終えるとすぐさま蛹化、脱皮。被害者の残骸を真っ黒な抜け殻で覆い尽くして飛び去っていく。
 成虫は蝿に酷似している。憎むべきベールゼブブに。それらがその後、巨大蝿として成長していくのか、はたまたツェツェ蝿(吸血蝿)的な振る舞いを見せて寄生虫の感染を拡大させていくのかは、まだまだ研究段階にあるようだ。
 潜伏期間中、咽頭周辺に集中して卵が植え付けられることで感染者は頻繁に咳き込むようになる。それによって卵が飛び散り、更にハウレスズ・ペストは周囲の人間・家畜へと伝染されていく。

 世界最初の発症地は、ミュリン村だとされている。某国の焼灼作戦実行地にほど近かった農業と牧畜が主産業の閑村である。気化爆弾の人体への悪影響を調べるために丁度現地入りしていたNGO団体の職員が、その瞬間をビデオカメラで捉えて残している。
 映像。村で唯一の円形広場に集まった村人たちが、職員の取材カメラの前で口々に、爆弾が爆発して以降、自分たちの咳が止まらなくなった、と訴えている。もっとも、ラ・フィン・マゴットの前哨体は人間に苦痛や障害を一切与えない為、彼らはそれ以外の面ではいたって健康だ。穿った見方をすれば、補償を引き出すために仮病を使ってごねているようにも見える。
 しかし、そう思っていたとしても、次の瞬間、印象は一変するだろう。
 特に咳き込みの酷かった麦わら帽子の農夫が一人、突如苦悶に表情を歪め、腹を指で掴んで崩れ落ちた。狭い村のこと、ほぼ同時期に感染していたと思しき他の住人たちも相次いで倒れ伏す。撮影レンズが、全員で互いに折り重なって呻き藻掻く瀕死の芋虫たちを映すまでに、さして時間は掛からなかった。近くの家からは泣き叫ぶ留守番の子供の悲鳴や赤ん坊の断末魔に近い絶叫が響いてくる。
 およそ三十分経過。近場の病院に連絡を入れたNGO職員達が必死に看護を続けていると、やがて、農民達の肌の至る所にぶつぶつと親指大の奇怪な黒子が滲み出した。
 まるでタール状の夕立の雨滴が彼らの皮膚だけを狙い打っているかのようだ。
 そして、どす黒く濁った血に濡れて蛆虫が顔を出し、女性職員が金切り声をあげる。
 後は巨大蝿の尾部から蛆の幼虫をスプレイされる蝿蛆症と変わらない。
 外から内に食い破られるか、内から外に食い破られるかの違いがあるだけだ。
 連絡を受けて到着した救援隊が見たのは、広場や畑、牧舎(家畜にも感染していた)にピーナッツ大の墨色の殻が大量に積もって土饅頭を作っている出来の悪いホラー映画のような光景と、夕焼けに向けて一斉に飛び去っていく雲霞の如き寄生蝿の大群。そして唖然とへたり込むNGO団体職員たちの姿だった。
 生存者はいなかった。殆ど皮と骨ばかりになっていた遺体は、稀に肉が残っていたとしてもエメンタールチーズか採掘され尽くした坑道の如く、内部に枝分かれした蛆虫の這い痕が残り、見るに堪えない有様だったという。そのビデオを持ち帰った職員達も感染していたため、数日後に一人も欠かさず、苦しみながらこの世を去った。当時、まだ新寄生虫のことは知られていなかったため、全員の遺体は検屍後、焼却せしめられた。
 報告を受けた軍上層部の頭は、ミュリン村へ『突如飛来した』巨大蝿の残存個体のありもしない潜伏先や、防衛網の見直しにばかり悩まされていたのだという。
 その時点で既にH・ペストの魔手は広範囲に渡って伸びていた。国連機関、政府による情報統制や隠蔽工作なども不可能だった。何故なら、その月を境に同時多発的に世界各地に姿を現し始めた黒死病によって、民衆は今日にも明日にも隣人家族や自分の身で臨床観察を強いられることになったからだ。只でさえネット文化の隆盛で知識の交換が活発に行われている昨今、素人たちの経験則でもおおよその全容は掴めてしまう。安全な地域など、すぐに何処にもなくなった。
 予防は困難を極め、感染拡大を押し留める方策は患者の隔離抹殺以外に無い。治療手段は全く研究されていない。内実が曝かれるにつれて日本においても恐慌状態が出現した。
 感染力の尋常ではない強さ、完全な致死性、平穏な潜伏期間の存在が培う、一秒後には発症するかも知れないという恐怖。この新種の伝染病禍は、人体は言うに及ばず、心をも犯して荒廃させる。皆が疑心暗鬼に駆られた。周囲の人間は既にH・ペストに感染していて自分を巻き添えにしようとしているのではないか、と。
 咳狩り――そんな物までもが現れて、猖獗を極めて吹き荒れた。
 魔女狩りじみた感染チェックは日常茶飯事、暴徒化した群衆が、咳き込んだ者を見つけては携帯電話やメールで連絡を取り合って集まり、リンチにかけて殺していく。
 定食屋で味噌汁に噎せただけのサラリーマンが、店員や他の客から袋叩きにされて殺害された、そんな出来事が笑い話ではなく実際に起きたのだった。その年のインフルエンザの死亡率は例年の十倍、直接的死因のトップは殴殺である。
 そして無知な一部により死体が焼かれ、あるいは遺族が加害者たちへの報復として遺体を焼き、本当に罹患していた者らからの感染は更に拡大した。
 当然ながら巨大蝿感染への関与を疑われたラ・フィン島の元住民達の元には世界中から私的正義の執行者達が集まってきた。その後の結末は闇に包まれている。島民達は移住先である新しい島から忽然と姿を消していたと囁く者もいる。デマインの実も種も持たず身を守る存在価値を失っていた彼らはあえなく撲殺されたと囁く者もいる。昆虫側に寝返って奇怪な奉仕生物へ変貌を遂げたのだと囁く者もいる。反感を爆発させた某大国の不正規戦部隊に拉致されて獄殺されたのだと囁く者もいる。
 余談だが、H・ペストの患者を火葬にすることは出来ない。仕方なく不衛生な土葬(水葬や鳥葬などは、遺体が補食されて媒介生物が増える危険を考えれば、とんでもない!)という形を取るのだが、そこからは本来の黒死病が発生して、また人が死んだ。

 世界レベルでも、H・ペストのこの空挺奇襲作戦には滅多打ちにされてしまっていた。
 死亡者は全人口の四十パーセントを越え、社会機能の麻痺は深刻、ライフラインは悉く破壊され、その惨憺たる有様は水道の蛇口から蛆が出るとすら評された。
 国連の監視機能も低下し、奴らこそ感染源だ、というデマゴークによる民族浄化を止められない。その骸の山を目当てにベールゼブブが襲来、浄化側までもが同じ場所に屍を積み重ねることになった。
 更には、焼灼作戦への忌避による対蝿戦線の後退縮小、消滅。対化学戦防卵装備に身を固めた各国軍隊が個別に通常弾薬や液体窒素フリージングスロウワー、試作超音波兵器にて応戦するも、主力ミサイル類の使用を封じられた状態では勝利は覚束なく、全作戦の実に七割において都市部への突破を許してしまうことに。
 逃げ遅れた住民たちを人柱として巨大蝿に捧げながら、大規模な後退作戦が人類圏全域で行われた。地表の三割を、飛び地状に分布する隔離棲息地域としてベールゼブブに明け渡す羽目になったが、それでも奴らの侵攻は止まらなかった。
 結局、焼灼作戦は再開され、市民には心許ない防毒マスクのみが配られた。

 だが人類とて、ただ座して死を待っていた訳ではなかった。
 特に、蝿の王の名を冠された生物に対する耶蘇教系宗教団体の敵愾心と熱意は凄まじく、ついには地球温暖化で絶滅したとされていたデマインの果実の酵素――件の原形寄生虫を死滅、分解させる地上で唯一の物質――を人工的に生成することに成功したのだ。
 効果は正に、膺懲の一撃と呼ぶに相応しい代物だった。ラ・フィン島起源の寄生虫の特性を得ていた新世代の蛆卵は、それ故に、原形寄生虫の天敵によっても死滅せねばならなかったのだ。感染者が酵素を服用した後、一瞬で全個体が。僅か十分の間に! 残念ながら巨大蝿の撲滅には未だ至れず卵の感染が絶えず続くため、服用は定期的に続けなければならなかったが、この酵素を含有した錠剤の登場により戦いの趨勢は一気に人類へと傾いた。
 開発者達の当然の権利として、錠剤にはガブリエラーゼ(Gabriel+ase)と名付けられた。人類がベールゼブブやラ・フィン・マゴットとの闘争に打ち勝って更に繁栄する新時代の到来を告げる、受胎告知の天使、という意味を込めたのだという。
 現金とも言うが、希望を得た人類は強かった。心ある志士達が立ち上がり、直ちに、ハウレスズ・ペストと戦う地球全域へのガブリエラーゼ配給計画が発動された。
 医薬工場は他の製品の生産を全てストップし、救世主の量産へ向けてフル稼働した。必要な材料や資金人員の調達、巨大蝿からの施設防衛、全ての人類が人種や思想の垣根を越えて手を取り合い、多少の軋轢はあったけれども協力してラ・フィン島の呪詛に立ち向かった。結果、錠剤の普及率をほぼ百パーセントに出来たことは、人類史に誇れる偉業だと思う。
 先を競って薬を手に入れ服用した人々は、計画の完了が発表されると霊長類としての自信や誇りを取り戻し、科学兵器と薬学、それに神の加護とによって、いつかは寄生蛆も巨大蝿も地上から消し去ってみせる、と久方ぶりの歓声をあげた。
 それは、あの時の、島嶼焼灼作戦の成功に沸き返る我々日本国民の姿に非常に酷似していた。

 そして今、私は宕古蠱大学病院の産婦人科の一室にて頭を抱えている。
 出産に至った、とある事情を持つ妊婦と赤子を前に、医師団のリーダーとして。
 目の前の分娩台は破水によって広がった羊水で液浸しになっていた。その中で泳ぎのたくっているのは、大量の蛆虫である。ガブリエラーゼによって死滅させられた筈の。
 ……否。子宮内の羊水は出産直前に胎児から溢れ出した蛆虫によって全体の七割を占有されていた。正確に言えば、分娩台は破水によって妊婦の産道から流れ出してきた羊水塗れの蛆虫の大群で表面を覆い尽くされてしまっている、となるだろう。
 そして、哀れな犠牲者、形容するのも憚られるような畸形の姿で誕生した異常な赤ん坊が、べちゃり、と母親が開脚している股ぐらからこぼれ落ちて肛門付近で俯臥していた。
 母親本人は出産開始直後より子宮から臓器を蛆虫たちに喰われ始めて、たった今絶命した所だ。この一時間、薬品投与や子宮摘出など、考え得る限り最善の手を尽くしたつもりだが、力が及ばなかった。軌攻体が相手だとガブリエラーゼも効きにくいのだ。只でさえ衰弱していた状態なのに、よく保ってくれたと感謝するべきなのだろうか。それとも徒に苦痛を長引かせたことを詫びるべきなのだろうか。いずれにしても、生死の境で懸命に踏ん張っていた彼女が我が子の産声を聞くことは、最早ない。
 この母子は、ガブリエラーゼ服用後に妊娠したケースで行われる出産の第一号だった。その新時代の幕開けに立ち会えることを光栄に思う気持ちは、産まれてくる愛し子の性別を知りたがった母親の要望でエコー検査を行った段階で吹き飛んでしまっていた。
 羊水には若干の蛆濁が見られ、肝心の胎児は、まるで蝿類と同化したかのような、語るも悍ましい姿で成長しようとしていたからだ。
 何が起きたのか、関係機関の必死の研究の末、予測はついていた。
 臨床試験もそこそこに新薬に飛びついた我々の迂闊さを呪うより他はない。結果的に恒常的に人体に投与されることになったデマインの酵素と、それによって死滅し特殊なタンパク質へと分解された蛆寄生虫の卵――特に子宮近辺の物――が、ヒトの受精卵が持っている未分化状態の胚性幹細胞(ES細胞)に悪意のある働きかけを行ったのだ。
 通常、ヒト受精卵は、あらゆる細胞になる可能性を秘めた万能細胞を持っていて、それはOct3/4に代表されるたんぱく質などの働きかけによって、手足や臓器など、胎児の身体になる物へと分化成長を遂げていく。
 Blz666。我々がそう名付けた前述の特殊なタンパク質は、その生体メカニズムに横槍を入れる。何者よりも強く速く無垢なヒト受精卵に取り付き未知の分化を促す形で第二の精子を注ぎ込み、胎児を変質させて畸形にした挙げ句、腹部には滅ぼされたはずの蛆寄生虫の卵を再び大量に構築させて腫瘍として抱えさせるのだ。
 またデマインの酵素は反応鍵を二つ持っていて、ラ・フィン・マゴットの卵を殺す一方で、女性の羊水の成分とも反応し、己を不活性化させる物質を作り出すことが判明した。つまり、妊娠が進んで子宮内に羊水が満ちてくると、その中にいる寄生虫(胎児が抱える腫瘍状態の再生卵)は、殺せなくなる(ラ・フィン島でも、妊婦には貝を食べさせない貝断ちと呼ばれる風習があったという)。加えて、Blz666に変異させられた臍の緒は母親から栄養を受け取る際にデマインの酵素を一切通さず、鉄壁の防護網が形成されてしまう。
 何より恐ろしいのは――、そうした揺籃で育まれたこの赤子が、生物として十全に機能しているということだった。
 見ろ。ガブリエルの祝福を受けてこの世に誕生した筈のヒトの仔が、よちよちと四肢を前後に動かし、蝿の翅を開く。
 ――キチキチ、……チチチッ!
 彼女の本来眼球があるべき位置には巨大なレンズの如き紅い複眼があった。生育段階で追いやられた未発達な人間の眼球が別に、鼻の上、眉の根元に小さな眼鏡のようにちょこんと座って、きょろきょろ、としている。背中には肩胛骨付近から発達して臀部に掛けてまでを覆う蝿の羽が、二枚のマントとなって畳まれている。
 腫瘍化していた蛆の卵を全て吐き出した腹はばっくりと内部を覗かせ割れていて、まるでキューピー人形の腹部を踏んづけ背中まで陥没させたかのようだ。肉を残している両横腹から、開いて突き出た長大な六本の肋骨が台の上に突き刺さり、昆虫の節足の如くカサカサと動き出している。
 ――カチッカチチッン。
 ベールゼブブの影響か、鮫のように尖った乳歯は上下ではなく左右から生えている。それを打ち鳴らしながら、その赤ん坊は歪んだ両手両足を使って、はいはい、を始めた。
 赤子らしいふっくらとしたふくよかな手の平。その指の先端には、爪の代わりに剃刀状の鋭利な突起が生え始めている。肌は人間の皮膚と蝿の皮膚が半々程度の斑模様、一部甲殻に覆われ始めている部分も見受けられる。どうやら、硬い骨の回りを柔らかい肉が覆う運動性に優れた内骨格生物と、柔らかい組織を硬い外殻で覆う保護性に優れた外骨格生物との両方の特性を得ているらしい。
 昆虫としての体節化なのか、首がやや寸詰まりになり、腰の括れが激しくなっていた。
 臀部の双丘は搗きたての餅を摘んで引っ張ったかのようにぐいんと伸びてから膨張し、二本の蝿の尾部になっている。おそらくスプレイも可能だろう。両者の付け根が交差する部位には人間の肛門と性器も見られ、その二穴から次々と新たな蛆虫を産み零していた。
 手首や関節が揃っている腕に比べて、両足は膝までしかない。切除痕に似た瘤状の膝頭から、スパイク状に発達した一本の太い棘骨を生やし、分娩台の柔らかい素材を刺し貫いて、尻を突き上げるような姿勢を取っている。
 ――ブッ、ブブブブブブブ……ッッッ!!
 猟奇的な姿の赤ん坊の背中から、耳障りかつ恐怖の根源に足り得る振動音が響く。
 まさか、飛べるのか? 動物サイズの重量を持ち上げる力があの翅にはある?
 巨大蝿と同じく!?
 中絶に強硬に反対していた同僚の医師が呟いた。これは進化だ、と。蝿の生命力に身体能力、人間の腕の器用さに加えて、もしかしたら知能をも兼ね備えた新人類、「ベールゼブブの堕とし仔」の誕生だと。二足歩行に拘る必要も無いじゃないか、と。
 そうなのかもしれない。Blz666という腐臭漂うエデンの果実を強引に口腔に詰め込まれてしまった人類は堕落しながら生きていく以外に術がないのかも知れない。私には打つ手が思いつかない。
 嗚呼、赤子が咳をしている。きっと、寄生虫の卵を吐き散らしているのだ。思えば彼女は産声を一度もあげていない。代わりにずっと咳き込んでいた。
 いつのまにか蛹になっていた蛆虫たちから一斉に成虫が羽化し、ぶわりと黒い雲となって分娩室の照明を覆い隠した。出口を探して壁にぶつかり回る兄弟姉妹に釣られるように、新世代の赤ん坊もふわりと飛翔する。そして、自分が母体と一緒に搬送されてきた扉の上部に吸い寄せられるように飛んで行き、ごつごつと頭を打ち付け指の鉤爪で隙間を穿り返そうとしながら、ちろりと不満そうに私たちを見た。
 止めろ。お尻をこちらに向けるのは止めてくれ。

 繰り返す。ガブリエラーゼの普及率は現在ほぼ百パーセントである。この母子は特別な例ではない。錠剤の服用とH・ペストへの感染がかち合えば、人間の妊婦は必ず堕とし仔を出産する。
 そして、中核開発者達を失ってマンティス計画が暗礁に乗り上げている今、人類は巨大蝿を焼き続けるしか手がない。焼き続けてラ・フィン・マゴットの卵を爆散、感染を拡大させ続けるしか未来がない。



・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/35.html

○遺伝元
・マンティスの祈り (ベールゼブブの設定を拝借)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/6.html
・楽園 (ラ・フィン島の設定を拝借)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/10.html
・たとえそれが悪魔でも (宗教団体、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/11.html
 
posted by 謡堂 at 22:02| ◆聊枕百物語

百物語・遺念蝉 /語り手知らず (怪集/2009、投稿)

 
・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/39.html

※この作品は傑作選に収録されました。
 
posted by 謡堂 at 21:12| ◆聊枕百物語

百物語・機 /語り手知らず (怪集/2009、投稿)

 
 大学の知人の畠窪畑憲が行方知れずになってから、既に一年が経っていた。家族に捜索願いを出された警察が失踪事件ではなく殺人事件として捜査を始めた、という噂が立ったこともあったが、その後進展があったという話は聞かない。
 整髪料で逆立ててライオンの鬣の如く広げた髪を金色に染めているチャラチャラとした男で、ピアスやノーズリングも好んだようだった。がっしりした体格に裏付けされた押しの強さ、人を小馬鹿にしたニヤニヤ笑いや馴れ馴れしく図々しい性格など、陰で嫌う者も多かった。かくいう俺も、妹への執拗なアプローチを巡ってトラブルになったことがある。
 そんな人柄だった所為に違いない。奴を疎んじていた世間がそろそろ記憶を風化させてしまおうか、という頃、俺は一人で同じく大学の友人である啀村のアパートを尋ねた。
 実はこいつが畠窪を殺して隠した犯人なのではないか。ある時期、警察が畠窪と啀村の関係を尋ね回ったり、本人が聴取に呼ばれたりしたことがあり、そんな風説がまことしやかに流されていた。それが原因で啀村は、暫くキャンパス中の学生から疎外されていて、今夜はそのお詫びと仲直りに参ったという次第だ。
 この説に、警察が啀村に関心を抱いたということ以外の根拠はない。第一、その警察も、とっくに彼からマークを外しているように見える。

 啀村はアパートのワンルームで一人暮らしをしている。建っているのは駅から大分離れた人気のない辺鄙な場所で、築うん十年はくだるまいと思わせる、やたら古びた二階建ての木造建築だった。近くに大きな林があって、蝉の鳴き声が洪水のように押し寄せてくる。
 流れた汗が片っ端から蒸発してしまいそうな熱い夜だった。それでいて、その蒸気が絶えず身体にまとわりついてくるようで、酷く蒸す。手土産に行きのコンビニで買ってきたビールや菓子類の詰まったビニール袋を下げながら、ギシギシと悲鳴を上げて軋む階段を昇っていくだけでも、脳味噌がうだるような徒労感が襲ってくるのだった。
 奴さんの部屋は、二階の向かって一番右側だ。端なのでアパートの壁に面した部分に広い出窓が一つ多くある贅沢な造りである。目的地の扉の前に立つと、俺は額から滲んできた汗を拭った。奮発した所為で大分薄くなってしまった財布の、一部だけ膨らんでいる箇所を摩って気を静めると、いよいよ意を決する。
「よっ、災難だったな。それに、俺も余所余所しくなっちまって悪かった」
 連絡を入れておいた啀村は、奥の卓袱台に片肘をついて小難しそうな学術書を開きながら待っていた。予め奴に電話で言われていた通り鍵の掛かっていないドアを開けて勝手に入っていった俺に向けて、無言で皮肉っぽい笑みを浮かべると、唇の左端を吊り上げながら片手をあげて応えてくる。
 啀村碌一郎。枯れ木の枝を藁人形型に組み立てて、ひょろっ、と手足を作ったような、痩せぎすで陰気な男だった。細めでねちっこい眼光の上から不格好な四角縁の黒眼鏡をかけ、脂っこい長髪を首の後ろで結わえて、いわゆる茶筅髪という奴にしている。
 上から下まで量販店の衣類で固めたラフな私服姿であるにも関わらず、何処か研究室に篭もって得体の知れない薬品の染みのこびり付いた白衣を纏っているような印象を受けてしまう、怪しげな雰囲気を漂わせた奴だ。教授陣からの覚えは大層目出度いらしいが。
「なになに。ここは再び友誼を結ばんとしてくれる君の誠意をこそ、重んじるべき場面だろう。些か没交渉が続いたとて、友情の挽回は直ぐに出来るともさ」
 斜に構えた物言いで招かれて、勧められるままにテーブルにつく。土産袋を置いて胡座をかいた俺は、そこで奇妙な物音に気づいて訝しげに眉を潜めた。
 件のアパートの側壁に面した出窓に、時折何かが外からぶつかってきている。部屋はクーラーが効かされているのでガラス窓は閉め切られ、駐輪場などを挟んだ隣のアパートから中を覗かれるのを嫌ってカーテンも引いてあるのだが、その幕の向こうから――。
「……蝉か。本当に多いんだな、ここは」
 遠くから飛来して、こっ、とか、トッン、とか当たってきては、長いセロハンテープを一気に引き剥がすかのような、スズランテープの帯を風に激しく棚引かせるかのような、何とも形容しがたい羽の振動音を網戸に伝えて、慌てて何処かへと去っていく。
 俺の部屋でもよくある光景だ。
 ただ、一匹の蝉が粗忽者で繰り返しぶつかってくるのか、それとも近隣に多数棲息している蝉が順番に当たってくるのか、音の聞こえる回数が、やや頻繁に思えた。
 それにその蝉たちはなかなか太っているようで、音にも若干重量感がある。
「然り然り。君が蝉だというなら蝉なのだろう。こんな夜更けに近所の悪戯小僧が小石を投げつけてきているのではなければ、だが」
「それで叱ろうと思って表に出てみたら誰も居ないってわけだ。狸も居そうだしな、この辺。だが、石じゃないだろう。もう少し柔らかそうだし、ちゃんと羽音もしているし。案外ヘラクレス辺りの外来の大カブト虫があの林で繁殖してぶつかってきてるんじゃないのか? さてはお前、出窓の外側に樹蜜でも塗ったのか?」
「だとしたら離れ去っていくのはおかしいな? 止まって樹蜜を舐めていくはずだ。もっとももっとも、それが真実なら採集業者が押し寄せて、この辺りも少しは賑やかになるだろうからありがたいがね。このコンビニ、品揃えが悪くて苦労しただろう? なるべく豪勢な贈り物を選ぶのに」
 そんな調子で身振り手振りも交え、こっこ、トンッ、と鳴り響く天然のBGMを聞きながら、俺たちは談笑した。
 ――こ……っ……こっ、…………トン……トッ! ……こん……っ……こん……っ。
 馬鈴薯のスライスを揚げたチップスやらビーフジャーキー、チーズに総菜、一番高かった弁当に、普段は買わない珍しいカップ麺。摂取したカロリーを惜しげもなく消費して、久方ぶりの会話を盛り上げていく。
 楽しい一時だった。後ろめたかった心が解されていくのが実感できた。お互いにあまり触れられたくない話題も、今晩に限っては無礼講だ。
 実は俺の所にも、警察が畠窪失踪の件で聴取にやって来たという話。あいつは一定以上のルックスを持った女には一回ヤるまで徹底的に付きまとったので、昔、妹に目を付けられた俺が包丁を持ち出して漸く追っ払ったという因縁があった事が理由だという話。信じられないことに啀村にも美人の姉がいるという話。
 啀村が、とある未亡人に教わって小遣い稼ぎに始めた魚の餌の養殖が意外と順調で、今は小さな倉庫を一つ借りてやっているということ。ゆくゆくはベンチャービジネスとして形にしようと思っているということ。などなどなど。
 しかし、そんな熱心な語らいを続けていると時間が経つのもとても早い。
「幸いなことに、俺と君は、また会える。知人の誰かさんとは違って。この繋がりを大切にしたいものだな?」
 啀村のどことなく不吉な物言いに送られながら、俺はお暇することにした。
 二人とも、ビールはあまり呑まなかった。

(……あいつ、殺ったな)
 その帰りがけ、ギシギシと喚く階段を降りて舗道を歩き出しながら、俺はそう考えていた。畠窪の名前が出る度に楽しそうに歪む啀村の細目の奥に宿るのが、憎悪と達成感であることが、似た経験のある俺には良く分かってしまったのだ。殺意も、理解できなくもない。俺が包丁を握った時は畠窪が引いた。啀村の時はそうではなかった。そんな所なのだろう。
(それに……)
 何気なくアパートを見上げた俺は見てしまったのだ。啀村と語らった二階の部屋の出窓に、ずっと衝突を繰り返していた物体を。
 それは蝉などではなかった。
 男の生首だった。

 始めは、窓から1メートルほど離れた空間にぽつんと浮いて、じっと部屋の方を凝視していた。するとその内、そのうなじの辺りで微かに火花が散った。同時に、つつー、と空中を滑っていって、網戸の張られた出窓へと当たっていく。
 ネットを撓ませガラスにノーズリングを嵌めた鼻をぶつけた際に、口早に何かを言っている。その時間は短く、直ぐに、つつー、と空中を滑って元の位置まで後退すると、ゆぅらりゆぅらり、風に揺られて少し場所をずらす。
 そして、またうなじでパチッと火花が散って肉の焦げた臭いが仄かに漂ったかと思うと、今度は窓の違う位置へと緩慢な速さで鼻っつらを衝突させにいくのだった。
 ちらりと表情も見た。一距離一距離、凶暴な怨念を練るように歯を食い縛らせていた。血走って濁った眼球が体積の半分以上剥き出しになっている。そのまま飛び出させそうに力を込め、食い入るように前方を睨み据える憤怒の形相だ。頬や額は青痣で腫れ上がり、出血も激しい。唇は麻痺しているのか別の理由か常時痙攣していて、網戸で何かを口走っている声も、俺には、ブブッ、とか、ババッ、とか何とも形容しがたい振動音にしか聞こえなかった。
 その生首の、ライオンの鬣の如く広がった金髪には見覚えがあったが、この目撃談を誰かに話すつもりはない。
 なにしろ犯人は警察の捜査の手をかいくぐって逃げ延びている手練れなのだ。
 藪をつついて俺まで行方不明にされたくはない。
 啀村によって首の後ろにスタンガンの電極を押しつけられ、散々暴行を受けた挙げ句にバラされ魚の餌の餌にされる畠窪の姿を想像しながら、うなじを摩り摩り、俺は帰路についた。

 ……帰路につこうとしていた。
 ……言いふらす気なんて、これっぽっちも無かった。
「あぁ、大溝。ちょっと待て」
 不意に後ろからそう言葉を掛けられた瞬間、背筋がゾッと凍えた。まるで氷の塊を見えない手で押し当てられたかのように。慌てて振り返ると、そこには啀村碌一郎が立っていた。右手にスタンガンを携えて。
「大溝。そうだ、お前のことだ。大溝洪太」
「がい……っ!」
 思わず立ち竦んでしまった俺に向かって、啀村はズカズカと歩を進めてくる。
「夜道は物騒だ。送っていこう」
 臆面もなくそう言い放った奴は、更に一歩、俺との間合いを詰めてきた。
 至近距離。互いの爪先がくっつきそうな距離。みっともなく狼狽して目を泳がせている俺の顔に、ぐいっ、と陰気な顔を押し近づけて詰問をしてくる。俺の姿を映していた眼鏡が、月光を反射してギラリと白く光り、奴の口元が三日月状に裂けて嗤った。
「見たな?」
「なん――」
 なんのことだ。そんな定番のすっとぼけは、通用しなかった。喉に水を吸った布を詰め込まれたみたいに、上手く言葉の出て来なくなった俺の身振りを遮って、人殺しの犯人が続ける。
「見たろう。見たんだろう。あれを見たから警察も俺の所に来たんだよ。だが、証拠不十分という奴だ。まさか幽霊の目撃談だけで起訴も出来ないからな?」
 啀村は畠窪が乗り移ったかのようなニヤニヤ笑いをし、自分の左手の掌を上向きにして差し出してくる。
「人体諸々処理は済んでいるがな、実は一つ足りなくて、内心焦っていたんだよ。財布かな? 君がやたらとポケットを擦っていたのを見て、ピンと来た」
(……気づかれていたのか?!)
 俺の胸に絶望的な心細さが込み上げる。心臓が恐怖で縮みあがり、血を止めるまいと必死に早鐘を打った。
「知ら――っ」
 しかし、何とか誤魔化そうという抵抗心は、啀村がスタンガンのスイッチを一回押して電光を夜闇に走らせると、折れてしまった。
「心配要らない、要らないとも、大溝。俺たちは身内を守ろうとした同志だ。あいつを敵視する仲間だ。そう思われたくて、妹の話なんて始めたんだろう? そうなんだろう?」
「……っ、ぅ」
 のろのろとポケットから財布を取り出した俺は、普段は使わない脇口のファスナーを広げると、中から小さな、しかし特徴的なピアスを一つ取り出す。
 これは、かなり前に俺がアルバイトをしているペットショップでミールワームをトカゲに喰わせていたら、そいつが、ぺっ、と吐き出したものだ。その時与えていた虫は啀村の納品した物だった。これが一点物だと自慢していた畠窪の姿が脳裏に浮かんだ。
 すぐに警察に届け出なかったのは、故人の人柄による所が大きい。正直、奴の失踪を齎してくれた恩人に対して不利益を働くことこそが悪事だとすら思えた。
 しかし、処分に困った。
 もし俺の指紋を付けてしまったそれを――布で拭えば消えるものなのか、俺には知識がない――警察に発見されて嫌疑をかけられたらと思うと、捨てるに捨てられず、万が一留守にしている間に家宅捜索をされたらと思うと、机の鍵付き引き出し等に保管しておく訳にも行かなかった。結局、肌身離さず持ち歩き続けて、刑事や周囲から常に監視を受けているという注察妄想じみた重圧を抱え込む羽目になっていたのだった。
 啀村の部屋を訪れたのは、本当に詫びと仲直りをする頃合いだったことに加え、何かこのピアスを上手に処分する方法を聞けないかという、計画性に乏しい淡い望みを抱いていたからでもあった。
(いい……のか……?)
 求めに応じれば、それで厄介払いにはなる。しかし、友人とはいえ犯人にこれを譲ってしまうことは、本当に正しい判断なのか?
 自分のスタンガンで誤って感電しない為か部屋とは違ってゴム手袋を嵌めている啀村は、渡された物を矯めつ眇めつ見分した後、満足そうに頷いてスタンガンをしまった。俺が項垂れて肩と顎を落とし、上目遣いの暗い視線で睨んでいるのを見ると、宥めるように横に並んで背中を叩いてくる。
「これで、これで共犯者だ。友情の復活だ。始末は任せておいてくれていい。実際実際、感謝している。これを警察ではなく、俺の所に持ってきてくれたことに」
 こいつはこいつでストレスを受けていたのだろう。いつもの鬱々さを潜めさせた陽気なテンションで俺を促し、駅までの長い道のりを先導し出す。
「入手経路の想像はつくが、君の口からも是非、聞かせて欲しい所だな?」
 ……今晩から、俺の部屋にも夜蝉が出るのだろうか?
 アパートの方に目をやると、畠窪の生首は消えていた。


 真夏の熱帯夜にて蝉が鳴いている。それらの内、何匹が生きている蝉なのだろうか。
 啀村は大溝に犯人であることを知られてしまった。
 大溝は啀村に自分の指紋付きのピアスを奪われてしまった。
(『俺』はこいつを生かしておくべきなのか?)
 判断を保留した彼らの夜道、頭上で急かすように五月蠅く蝉たちが鳴いている。
 


○修正点
・「啀村が小遣い稼ぎに始めた〜」→「啀村が、とある未亡人に教わって小遣い稼ぎに始めた〜」
・「自分の左手を掌を」→「自分の左手の掌を」


・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/41.html

○遺伝元
・絶望は愚か者の結論。 (ミールワームの設定を拝借)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/29.html
・眠れ静かに (蝉、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/36.html
・あなたを待ち侘びて (スタンガン、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/3.html
 
posted by 謡堂 at 21:03| ◆聊枕百物語

百物語・脈とり虫 /語り手知らず (怪集/2009、投稿)

 
 小学生の頃、不思議な物を見た。
 爺ちゃんが危篤で病院のベッドの周りに親族縁者が集まっていた時のことだ。
 当時の俺は人が亡くなるという事が分かっていなく、心電図モニターの様子を固唾を呑んで見守っている父母達の隣で、ぼけーっと突っ立って、静かな寝息を立てている爺ちゃんの姿を眺めているだけだった。
 そんな時だ。掌を天井に向けてシーツに横たえられていた、枯れた腕の手首の所に、一匹の尺取り虫らしき物がちょんと乗っかっているのに気がついたのは。
 への字になって、脈の所を頭でぐっと押している。
 やがて心臓の停止を告げるピーという音が鳴ると、そいつはもそもそと生の鼓動の失せた手首から降りて何処かへ去っていってしまった。

 こんなことを思い出したのも、俺が、事故を起こして暴走寸前の原子力発電所で懸命に復旧作業を行っているからだろう。
 目の前の太い冷却水パイプに見覚えのある虫がへの字になって乗っかっている。
 細かい説明は省くが、このパイプが止まると炉心の溶融が決定的になる。
 まさか、まさかな。
 やめてくれ……。
 離れるな――、まだ離れ――っっ!!
 


○修正点
・「掌を天井に向けてシーツに横たえられている枯れた腕の手首の所に、」→「掌を天井に向けてシーツに横たえられていた、枯れた腕の手首の所に、」


・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/49.html

○遺伝元
・あの日から (臨終シーン、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/7.html
・虫で (虫で死亡、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/32.html
 
posted by 謡堂 at 20:43| ◆聊枕百物語

百物語・害虫駆除 /語り手知らず (怪集/2009、投稿)

 
・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/56.html

※一行作品(一行か?)。これは、掲載ページを直接見た方が、雰囲気が伝わるかな、と。
 
posted by 謡堂 at 20:36| ◆聊枕百物語

2010年01月16日

百物語・岩底の雑蟲 /語り手知らず(怪集/2009、投稿)

 
 ganntei_no_zoutyuu__YOUDOU.pdf
(縦書きPDF版は↑こちら。↓のように、いきなりオチに飛んだりしないので、推奨)

 http://youdou.sakura.ne.jp/RH_ganteinozoutyuu.htm
(縦書きは↑こちら。/最初に一番左端に飛ぶ(?)ので、ネタバレ注意!)
 
  
 ――雑蟲共め……。
 会社が休みの日曜日、私はごろんと庭石をひっくり返した。
 裏で蝟集蟠踞する連中を駆除する為に。
 死んだ鮎の腹を思わせる湿気った色の岩質に、醜悪な群れがびっしりと寄宿している。犇めく背殻が汚穢な粘液を滴らせ、暗褐色の触角が便所束子の如く密集。風を受けて蠢く。深緑の芝生に逆様で乗せられた一抱えもある安曇川石の裏は、まるで腐爛死体の毬栗頭皮を見せつけられるような惨い有様になってしまっている。
 ぶよぶよと水膨れした赤茶色の米粒の群れ。ゴム手袋を嵌めた指で潰すと苔臭い体液を滲み出させる軟弱な矮躯から、退化した産毛状の針をまばらに生やし、もぞもぞと蠕動しながら緩慢に岩肌を降りていこうとしている。
 それらを乗り越えてカササッと俊敏に這っていくのは、細長い足を放射状に生やした直径二、三ミリ程度の硬貨型の蟲達だ。硫化物中毒による死斑に似た忌まわしい緑の胴体から、関節の見えない畜毛に似た脚を大量に広げて盛んに前後させている。
 蛭状の口吻でもって貼り付いている者共もいる。そうやって岩石の裏の汚物に塗れた乏しい栄養素を摂取しているのだろう。転がした時点では擬態によって砂利にしか見えなかったが、陽の光を当てられていると苦しそうに藻掻き出してみるみる変色、表皮を裂いて内側から捲れ上がり、腫瘍の如く膨張していく。最後には疣だらけの奇怪な工事現場のカラーコーンとなって、喘息じみた気忙しさで伸び縮みを始めた。どうやら咄嗟には移動出来ない種のようだ。
 その他にも大小無数に駆けずり回る黒い甲虫。産み付けられた卵の群棲地は、白濁色、赤味のある半透明、黄膿色、と幾種類もの気違いじみた彩色で蟲畑を並べ立てている。
 ――怖気が走る、とはこの事だ……。子供に見せたら泣いてしまうぞ、これは。
 重しをどけられた土肌の方を見れば、何処から持ってきたのか動物の肉――まさか人肉ではあるまいが――を後生大事に大腮に咥えてじっと身を潜ませている、髑髏じみた背甲を持つ鍬形虫がいた。いや、本当にクワガタなのか? 中央を盛り上げてひん曲がったせむし男的な胴部からは、底意地の捻れた悪意を感じさせられる。両側に放り出された三対六本の節足は根元が中央に集中して寄っていて、落ち武者の生首が無念げに垂らすざんばら髪のよう。眼に入った瞬間には怨霊の遺骨を掘り当ててしまったかのような、不気味な印象を受けてしまったのだが。
 ――調べる度に新顔が居るな……。……おのれ、人んちの庭先に我が物顔で蔓延りおってからに……!
 それらに殺虫剤のスプレーを吹き掛けながら、歯噛みする。私は元来偏屈な性質で、虫の存在を生理的に許せない。特にこういう岩などの裏でのさのさしている連中を発見すると、痰が喉を込み上げてくる。叶うことなら油をかけて燃やしてしまいたいくらいだ。
 漸く手に入れた都内の一戸建てマイホームにおいても、その嫌悪感との実に六十年以上にも渡る膠漆の付き合いは続いていた。
 前の住人が他所へ引っ越してから大分経っている中古住宅だという話を聞いて、嫌な予感はしていたのだ。条件の良さ――駅から近い交通の便、相場の三割ほど安い値段、などなど諸々――を鑑みて他人に取られない内に、と早々に購入を決めてしまったのは、やはり失敗だったのかもしれない。河川や森が近くにあるならばともかく、ここは都会の真っ只中だぞ、という侮りがあったことも認めよう。
 畢竟。つまり。憤懣やるかたないことに。
 長らく最低限の手入れしかされずに放置されていた新たなる我が家の庭は、侵犯されていた。雑草の如く生い茂った地蟲共によって。文明社会の硬い舗装道路や頻繁に駆除剤を撒かれる街路の茂み等によって、生息圏を奪われた奴らが、避難場所に選んでいるらしく、ちょっとしたコミュニティが築かれているようなのだ。和風庭園かぶれだったと見える前主人が残していった庭石の数々を持ち上げて裏返すと、ご覧の通り、この世の物とは思えない惨状が広がっているのである。
 ――駆除しても駆除しても際限なく湧いてくる屑共が!! 人間様を手間取らせ不快感を与えるしか能のない劣等生物めらが!!
 脳神経を苛む頭痛を堪え、人差し指でノズルのトップを押し込み続ける。上下左右にスプレー缶を動かす手付きは休めず、しかし私は全くの抜本的な解決策が必要だと痛感していた。
 この家に越してきて以降半年間、休日の度に必ずこうして庭の蟲の駆除を行っているのだが、キリが無い。どうも奴らの頭では、新しい主人を得て此処が死刑場になったという事実が飲み込めないらしく、数が減ったという手応えを感じられずにいる。
 何よりこの方法、私自身が大嫌いな虫と対峙しなければならないという点で、かなり劣っているのだ。
「……ヒッ!!」
 岩裏にこびり付く雑蟲の衣から、びょんと長い蘇芳色の触覚が四本突き出ているのを発見してしまった私は、思わず総身を強張らせた。
 ――八つ眼の三葉虫だ! 八つ眼の三葉虫が出た!!
 特にこいつだ。どう見ても古生代から甦ったとしか思えない奇怪な外観を持つこの怪物だけは、何が何でも根絶させねばならない。
 赤茶色の米粒が殺虫剤でボロボロと剥がれ落ちる中から、三日月状に湾曲した鼠色で錨型の頭部が顔を出してくる。その中央、紅くて目立つ複眼らしき目玉が不揃いに並んでいるのを見た私は、生理的嫌悪で震え上がらずにはいられない。まるで不潔な足の裏に生じる発疹のようではないか。万が一触れれば、質の悪い疫病に冒されてしまうに違いない。
 残忍な風貌で、触角は四本。複眼は小さなビーズを火で炙りぶつぶつと形を歪ませたかのようなグロテスクな半球体。それが邪教の伝える狂気の星座の如く、うじゃうじゃと密集して頭部に嵌め込まれている……、悍ましい!! 正視に耐えられなくて、向き合ってまじまじと観察したことなど無いので、眼の数は八つ以上あるのかもしれなかった。
「……死ね……、……死ねっっ!!」
 私は殺虫剤の噴霧を、そいつのいる一点に集中させる。次第に露出してくる人体の脊椎じみた無数に体節のある胴、その両側に一本ずつ節足を生やした醜いM字の羅列。疥癬病を患った海老の尾を連想させる突起物を、これ見よがしにぐいと跳ね上げている尻部へと。
 奴が甲殻の隙間を一斉に開閉させて魚の鰓じみた挙措からゴムの腐ったような悪臭を吐き出すのを見た瞬間、憎悪のあまり少し意識が飛んだ。気がつくと薬缶を放り捨てた私は、傍に置いてあった草刈り鎌を振り上げて無我夢中で幾度も幾度も八つ眼の三葉虫の這いずり回る岩裏へと刃先を叩きつけていた。
「ウガアアアアアアッラァァッッァァァァァァァァァッッッ!!! ここは私の庭だっ、日本国の法律によって定められた所定の手続きに従いっ、この私が正式に占有を認められた所有地だ!! 虫は出ていけっ、貴様等など出て行けェェェエエエエエッッ!!」
 ――はぁ……はぁ……っっ!!
 一度発見すると次から次へと湧き出してくる親指の第一関節大の三葉虫共を粉々の破片になるまで斬り刻んで、それでもまだ閉じた瞼の裏にチェシャ猫笑いの如く奴らの姿がへばりついている。駄目だ、もう耐えられない。私はその後、消火器型の殺虫剤ボンベを物置から持ち出して庭中に液体薬品を散布しながら、一つの決断を下していた。
「雑蟲共の棲み家を根刮ぎ奪い去ってやる……」
 そう呟いて浮かべた笑みが邪悪で獰猛な物であると謗られたとしても、私は痛痒にも感じない。……くふっ、くふふ、見ていろよ、害虫共め!
 ふと気がつくと、千切れて芝生に飛んでいた八つ眼の死骸の頭部が、醜悪に盛り上がった複眼で億劫そうに此方を見遣ってきていた。私はペッと唾を吐きかける。然る後、その上から、土がぬかるんで泥になるまで殺虫剤のシャワーを御馳走し続けた。

 ――ガガガガガガッ!!
 数日後、我が家の庭にはパワフルな建築業者のショベルカーが入っていた。為す術もなく巣ごと掘り返されてダンプトラックに放り込まれていく虫けら共。眺めていると笑いが止まらない。
 彼ら専門家を雇って土を総入れ替えさせるつもりだ。新しい綺麗な土には除虫剤、殺虫剤をふんだんに混入し、その上で抗虫アスファルトで舗装してしまおう。
「そうだ、清潔な都会に地蟲の存在など必要ない。精々追い払われて山にでも帰れ。森にでも逃げ込んで震えていろ。いずれそこも人間様に切り拓かれて貴様等など残らず絶滅させられるのだろうがな!」
 哄笑、歓喜。空港の滑走路もかくやという滑らかで機能的なグレイの庭地。その衛生的に生まれ変わっていく景観は、私に久方ぶりの達成感を与えてくれる。
 全ての工程が終了した日の晩などは、軽い戦勝気分。機嫌良く書斎で書き物を終えた私は、眼の疲れを癒す為にデスクから離れてフローリングの床にごろりと仰向けになった。
 ――次の週末からは自由になるな。何をして過ごそうか……。
 こうすると視界が変わって面白い。下から書名を見上げる本棚、目の高さにある机の脚、等々。靴下を脱いで素足の指を絡み合わせ、健康体操の真似事をしながら首を回す私。
 と、
「――!?」
 何気なく今まで自分が座っていた椅子の裏へ目をやった私は、その途端、床に小判鮫の如く背中を貼り付けたまま金縛りにあってしまった。尻の温もりの残るデスクチェアの裏、そこに瘡蓋の如くびっしりと、茶色く小さなブツブツが盛り上がっている。
 室内蛍光灯の明かりが苦しいのか、最早二度と見ることは無いと思っていた砂利蟲が、擬態を解いてベビーコーン状になり伸縮している。それが私にはまるで、「ハロー」と手を振って嘲弄の挨拶をしてきているように思えた。
 ――雑蟲!? 何でそんな所に?!
 今までそんな輩をぶら下げた席に腰を預けていたのか。そう思うと、尾てい骨やら脹ら脛の辺りやらが粟立つ。硬直から立ち直り飛び起きた私は、とにかく殺虫剤を取りに行こうとスリッパに勢いよく爪先を突っ込――、んだ刹那――、グヂャリ。
「なん……だと……?!」
 履き物に収めた太い足の指。その奥に先客が。鮭のイクラが詰まっていたような錯覚に襲われる。脳裏に赤茶色の米粒が浮かんだ。爪先の圧力であっさりと潰れたそれらが、ヒリヒリと刺激のある体液をじわりと爪と肉の隙間に沁み込ませてくる。
 踝が凍えた。この不快さ、間違いない。中に忍び込んでいた蟲を踏み……っ。
「こ……ごい……っ、こいづ……ラァァァァァッッ!!」
 潰れてはみ出した昆虫の臓器の、まだ生きていて指股で動こうとする小刻みな痙攣。蹴るようにしてスリッパを放り捨てた私は憤怒で肩を打ち震えさせ、猛然と部屋を見回した。
 本棚と壁の隙間、卓上ライトの底、隅に畳まれているYシャツの裏。よくよく目を凝らしてみれば、スッと小さな影が横切っては奥へと消えていく。
 階下からは妻の金切り声と食器を取り落とす音が響いてきた。……まさか工事中、我が家に避難してきていたのか? そして、そのまま棲み着いてしまったということなのか?!
 何処からともなくゴムの腐敗臭じみた饐えた臭いが漂ってくる。私はそこかしこから八つ眼の三葉虫の得体の知れない不気味な視線を感じてしまっている。

(蟲め、蟲め、蟲共めっ。負けるものか!)
 その日から、私の次なる戦いは始まった。
 どうやら家具などで雑然とした人間の住まいは、岩陰を好む雑蟲の面々にとって蛸壺に等しい新天地だったらしい。不遜なる移住者達が我が家の裏という裏に潜り込み始める。
 昼間、私が仕事に出ている間に妻が掃除機をかける場所は、床に加えてテーブルや椅子の裏が追加された。放置していた冷蔵庫や洗濯機の下、洗濯物を溜めておく籠の接地面なども。
 外に出る私とて気が抜けない。奴らはどんなに入念にチェックしていても、スーツのポケットや鞄の中などに忍び込んで来る為だ。
 常在戦場。欠かさず鞄に殺虫剤を常備。発見したら即噴霧。
「だからと言って君っ、お客さんの鞄にまで殺虫剤を浴びせるとは一体どういう了見だね! こらっ、聞いているのか!!」
 留め金の裏に小さな影が差したから消毒してやったまでのこと。感謝されこそすれ、咎められる謂われなどない。人体への害だの何だのと、取るに足らないデメリットをあげつらって文句をがなり立ててくる部長を一睨みで黙らせると、私は定時に退社する。今日もマイホームで雑蟲共との戦いが待っているが故。
(どいつもこいつも目が塞がっている……。都市部とて、うようよと気色の悪い虫が這い回っているというのに!)
 同僚からは精神を病んだ奴と避けられ、近所の子供達には殺虫剤ジジイとからかわれる日々。嘆かわしい。道端で香水代わりに自分に有機リン・スプレーを噴き掛ける様を見る人々も、町内会の会合で一緒になる隣人達も、部長と同様の反応を返してきたのだ。
(ふん、虫を嫌うことが精神疾患の一種だとでも言うのか!)
 唯一の救いは、妻の理解が得られていることか。
 何せ、大学のゼミで大きなヤスデが出た時に私と彼女だけが酷く怖がって、それを仲間に囃し立てられている内に互いを意識、気が合い婚約に至った仲だ。彼女の虫嫌いは私よりも強い。蝶や蜻蛉が飛んでいると言っては、なかなか外にも出たがらないくらいである。
「あのねぇっ、岩蔵さん、奥さんの話なんかいいよっ! 迷惑がられてんの分かる!? じゃっじゃか、じゃっじゃか殺虫剤ばらまいちゃってさぁっ、お隣まで異臭が届いちゃってるじゃない! 薬品臭い、喉が痛くなる、って鈴木のお婆ちゃん困ってるんだよ!!」
 五月蠅い町内会長の爺さんだ。臭いが嫌なら消臭剤を置くなりマスクを付けるなりすればいいだろう。うちはそうしている。それくらいの自己防衛も出来ないのか?
「ちょっと! 引っ越してきたばっかで何て言い草なのさ! 何様だか知んないけど止めろって言ってんの!! あんた軒先で誘導式の固形毒餌も使ってるでしょ? あれね、近所の飼い猫も引き寄せちゃうんだよ! 食べちゃって泡噴くの!! 聞いてんのぉぉっっ?!」
 いい加減に手を離せ! こっちはそれどころではないんだ!
 岩底からの侵略者は隙を伺っている。一見どんなに経路が閉じられていようと、そこが裏であれば必ず侵入を果たしてきた。車のトランク、金庫の内部、きっちり回したと思っていたジャム瓶の蓋の裏っ。一掃を願えば、手を休めている余裕など無いのだ!!
 排熱孔から潜り込まれてパソコンや家電の故障など日常茶飯事。食器家具、床のワックスや壁紙を防虫抗虫仕様に代えてみても、まるで無力。奴ら、耐性を身につけてきている。
「ならば直接潰してやるまでだ。殺してやる……殺してやるぞ……っ、私の住居を侵犯してくる害虫共、如何なる手段を用いても一匹残らず……!!」
 玄関で迂闊に革靴に足を突っ込んでしまった時の、脆弱な殻のぱりぱりと割れる感触が土踏まずから消えないのだ。
 これを想像してみるがいい。入浴しようと手拭いを裸の肩に引っ掛けて、風呂蓋を持ち上げた時、その裏にびっしりと群蟲が貼り付いている様を。まるで、どこぞの鍾乳洞の石筍か、湖面に映った逆様の西洋の城。有機的に連なった蟲土色の氷柱群が、板面を寸詰まりの四角い剣山へと変えている。斜めに傾けると湯滴で滑って崩れて行き、湯船の中にボチャボチャンと落ち広がっていく。大半が焚き熱に当てられて弱っていて、水面を泳ごうとしても直ぐに沈んでいくのだ。運良く縁に突き当たっても、つるつると滑って登れず、やはり同様の運命を辿る。そして芳しかった入浴剤の楽園は泥水の如く濁らされていく。
 騒ぎを聞きつけて桶の底から逃げ出してきた、青白くぶよぶよと膨れ上がった大蜘蛛が、勢い余って私の踵にぶつかり、尻を目掛けて凄まじい勢いで膝裏を駆け昇ってくるあの恐怖。
 夜中に眼を覚ましてふと壁を見たら、盛り上がった黒影が這っていく、あの戦慄。
 頬が痩けたと人が言う。
 眼が怖いと孫が泣く。
 殺虫剤の過剰使用で身体を壊し、抗毒剤の服用を強いられながらも戦いは続いていく。
 元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば元を断たねば裏を埋めるのだ裏を裏を塞げ塞げ塞げ無くせパテでは駄目だ皹が生じるもっと柔らかい決して破損せず微妙な凹凸に自らフィットしていく柔軟な柔軟な柔軟な柔軟な――。
「ウヴ、ヴゥゥ……」
 噂。近所で夜な夜な人攫いが出没するそうだ。
   連れ去られるとプレスで平たく四角く加工され、家具の隙間や下に敷かれてしまう。
   物陰に蟲がつかないように。
 噂。彼らはその状態でも生きている。しかし、喉も肺も潰されていて声が出せない。
 噂。実物を見た。夜道の自動販売機の下で。
   捻れた小指がはみ出して、ぎょろりとした眼球が暗がりの奥から覗いてくるのを。
 噂。彼らは口の中に入ってくる虫を咀嚼して、やっと生き延びている。
   誰かが気づいて救出してくれる、その日まで……。
 ウフフ、そんな目に遭うのは、うちの塀に罵詈雑言を落書きしていく悪童ぐらいのものさ。
 もっとも、連中の鼻っ柱ほどの成果は得られず仕舞いであるが。金庫に詰めたら使えない。瓶の蓋には大き過ぎる。あれではとても全ての裏には対応できなかった。途方に暮れてしまう。いよいよ余人に避けられるようになってきたが、一向に虫が我が家を避ける気配はない。
 そんな状況に、ある日、一つの転機が訪れた。
 きっかけは寝室で遭遇した奇妙な夢である。

(ここは……何処だ?)
 霞のように朧げな私の意識が周囲を見回した。
 苛烈な灼光に満ちた世界。
 見渡す限り茫洋と広がる溶鉱炉の海原。
 チリチリと舞う粒子に嬲られて、ぱさついた額髪がふわりと浮かぶ。乾いた目が潤いを求めて瞬きを繰り返し、そして映し続けるのは、何とも終末的で肝を冷えさせられる光景。
 歪に輪郭を撓ませた様々な形状の柱が、純白に燃え盛る太陽表面を思わせるフレアの大洋を掻き分けて、突兀と天へ向かって聳え立っている。
 あたかも、マングローブ(海漂林)の密林が葉と梢を失い、節くれだった幹だけを伸ばした威容を誇示しているかのようだ。
 その中の一本、円柱の頂上にて。私は押し寄せる熱波に身を炙られながら、四つん這いになって懸命にしがみついていた。狭い。面積は畳半畳ほど、背を丸めて漸く四隅に四肢の先端を引っ掛けられる。頭上にはすれすれの所に天井がある。――そう、この世界には穹(そら)がない。代わりに凸凹とした土色の平面が延々と続いていて、柱達の頭に覆い被さっている。そこに背骨を擦りつけている時だけ、底知れぬ安堵感を得ることが出来た。
 轟音。
 突如、眩しくて概要の見えない焔海の深淵から、二本の動物の足が突き出でて天井を蹴った。伝わってくる衝撃波に背中を打ち据えられる。ビクンと身を竦まされる。その揺れだけでも、ぺちゃんこに潰されてしまいそうな迫力だ。
(何だ……何が始まったのだ……?)夢に特有の不親切な状況案内に焦燥が募る。
 続いて、腰を曲げた巨人らしき影が海面の奥でゆらめき、灼熱の飛沫を上げて腕を伸ばしてきた。両足を食い込ませたまま天井に両手を叩きつける様は、まるでシンクロナイズドスイミングの倒立か、逆さになった飛び込み姿勢のよう。
 そして私の仲間が同じ様な姿勢で這い蹲っている、此処よりもっと太い柱を地響き立ててひっくり返しては、運の悪かった彼らを光で灼き焦がし、致死性の雲を噴き掛けている。
 巨人。轟音。殺戮。
 乗っかっている足場の位置だけが生死を別つ苛酷な環境だ。世界が暗く冷えた時間だけ、私達は天井を逆様に這い、より安全に思える別の場所を探して移動することが出来る。
(これはもしや……雑蟲共が見ている世界なのか?)
 そんな想いが胸中に去来した。しかし、境遇に同情する気には到底なれなかった。
 理由は簡単、視てしまったから。それまで柱だとばかり思っていた隣の構造体の側面に、天井と水平になって巨大な文字が綴られているのを。読書用にと、いつも枕の隣に積み上げている文庫本の書名らが。
 いつのまにか私の乗っている柱も装いを変えていた。広く、素材はふわりと柔らかく、隣には仲間を犇めかせて。腐った熊手の歯に、眼球じみた球体関節を付け加えたような枯れ枝が、力んでいる臍の隣辺りを擽ってきている。私と腹を押しつけ合い、人間と同じ大きさになった八つ眼の三葉虫共がずらずらと居並んでいた。奴らが一斉にこちらを向いてくる。いや、その複眼に映るのも……、この世で最も忌まわしい……っ。
「うわ゛ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!」
 私は寝汗をびっしょり掻いて飛び起きる。まさかと思いつつ慌てて枕をひっくり返すと……珈琲スプーン先サイズの八眼の悪魔達。夢で見た通り、悍ましい地蟲共が柔らかいクッションの抱擁を受けながら、髪から脂分や汗が浸透した生地にウゾウゾとしがみついていた。
 嗄れた魔女の指先を思わせる穢らわしい剛毛を生やした節足の群れが、ベージュ色の枕の上で跳ね上がり鍵盤を打つ。刺激を受けて、ぞわっと八方に散り始める。
 首筋に鳥肌が立った。跳ね上げた掛け布団からも幾匹もの蟲が逃げ出して行った。
 ――こいつら、とうとう、私の寝床にまで我が物顔でうろつくように……っ!
 狂おしい激情に駆られて晩酌に備え付けているウォッカをぶちまけた。その上に火をつけたマッチを落とす。どのみち、こんな汚染されたベッドを使うことは、もう出来ない。自分の寝床を燃やしていく愚か者を、焼却の難を逃れた三葉虫たちが手近な棚の天板に逆さに引っ付いて嗤っている。
 同時に、頬にぼとぼとと何かが落ちてきて鎖骨に触れたのを感じた私は、天井を見上げて愕然とさせられた。そこにはびっしりと、斑模様の黒い絨毯が張り付いていたのだ。鈴生りの雑蟲共が、嵐に吹かれた砂漠の砂丘か生きている山岳地図の如く濃淡を変えていく。炎上するベッドの明かりに照らされて一部が藻掻き跳ね、粘液の糸を引いて垂れてきては、寝間着の袖口を狙ってくる。それらを払いのけながら、私は忽然と悟らされた。
 ――そうか、この家を一つの岩の裏として認識し始めたのカァァァッッ!!
 みしみしと病的な音を立てて天井が軋む。あの『マスゲーム』共が重いのか、それとも天井裏に目一杯詰まっているのか。
 八つ眼の三葉虫の嗤いが深くなった。この家も燃やすのか、庭と同じく更地にでもするのか、と。……馬鹿め、私はあの悪夢の中で貴様等の弱点を掴んだのだぞ!
 翌日、すぐさま私は、建築会社へ電話をかけた。
 なんでこんな簡単なことに気がつかなかったのか。
 ――ああ、そうだ、そうしてくれ。

 思えばイカロスは慧眼だった。おそらく彼も、父と共に幽閉されていた塔で、石畳を枕に私と同じ夢を見たのだろう。そして、雑蟲共の恐れていた太陽の内側へと、逃亡を図ったのだ。たとえ焼かれて落ちることになったとて、その顔は卑近に迫った安寧の地で過ごすことを夢見、幸福感に包まれていたに違いない。ならば私は、到達できぬ幻想の果てにではなく、この地球の真固上に理想郷を打ち立てて見せよう。
 暗雲の垂れ籠める曇天の日、果たして画期的な新築が完成した。
 道端には黒山の人集り。嬌声のざわめきが敷地上方を指し示している。偉業を成し遂げた夫婦の住まいを驚嘆の念でもって仰いでいる。
「ふふ……生まれて初めての気がするな。こんなにのんびりとした気持ちで過ごすのは」
 私はといえば、透き通った強化ガラスの湯呑みで典雅に朝の緑茶を啜り、勝利の味に浸っていた。両手を添えて顎の辺りに持っていた茶碗を、一息ついてダイニングテーブルに降ろす際に、卓を透けて自分の膝が見える。無色透明なアクリル樹脂製の特注品なのだから、当然だ。椅子も家具も屋敷の建材までも、全てが同様。光の波長を吸収せず、屈折も最低限に抑えた素材で統一している。
 厚みによる僅かな向かい側の歪みと反射光とだけで存在を判別できる、この水晶宮こそが、私の至った結論だった。要するに雑蟲は『裏』の生物なのだ。もしも全ての場所に隈無く光が行き渡り、人の視線が遮られている様な部分が排されれば、奴らは居ることすら叶わないのだ。不愉快な影は、この家の何処にもない。
 放逐された地蟲共の怨念じみた渦巻く雲塊が、天を横切って日光を遮る。無駄だ。この家はプラスチック建材の屋根に発光板を埋め込んでいて、昼夜問わず人工的な明るさを維持し続けている。条件を欠くことはない。夜になれば蛾だの羽虫だのが寄ってくるだろうが心配無用。その為に設置された、カーバメイト系ジェットエア・カーテンだ。
 今にも泣き出しそうな灰色の空模様の元、自前の舞台照明に照らされた我が家が周囲の薄黒い風景から浮かび上がる。本当に隅から隅まで眼を通すことが出来た。スケルトンの冷蔵庫、電源は最新鋭の遠隔ウェーブ送信で、内部機器もオクロルム社のトランスパーレント・テック。保存中の食料は透明パックに入った固形ゼリー食に、蓋やラベルを外した透度のあるペットボトル飲料水のみだ。
 服はモダンでクリアーな抗虫ビニール素材。立ち上がった私が前を向くと、見上げる連中がどよめいた。顰蹙の悲鳴、怒号。町内会長が顔を赤くして喚き散らす。裸同然の格好を公衆の面前に晒すとは何事だ、と。
 ――ふん、貴様等が勝手に家の中を覗いてきているのだろうに。しかも、見ていて首が痛くなりそうなほど此方へ顔を上げて。
 そう。そして極めつけ、我々夫婦は空中で生活を営んでいた。
 喩えるなら弥生時代の高床式倉庫。虫返しのついた柱で地上三メートルの高さに保持されている小屋だ。素晴らしいことに、蟲の犇めく穢らわしく不浄に満ちた大地から隔絶されている。外部との接点は、玄関に備え付けの折り畳み可能な梯子以外には無い。
 傍目には、裸身の夫婦が宙に浮かんでパントマイムをしながら暮らしているようにも見えるだろう。
 罵声を浴びつつ自宅の窓際から群衆を眺め降ろす。テレビカメラが来ていた。人々は珍奇の瞳で集まり続けている。
 馬鹿め! 愚昧共め! 異端者と笑わば笑え! だが、こうすれば地べたを這いずる雑蟲共は侵入して来れないのだ!! 完璧な排除を為し遂げたというのに、何を憚ることがある!!!
 おっと、だからと言って、地上の土地を虫共に明け渡した訳ではないぞ。
「時間だ!」
 ――プシューッゥゥウ!! 貯農薬槽のタイマーが入る。希釈して湛えられていた液体が、小屋の下部に設置された大型ノズルから霧状になって地上へと散布された。もうもうと立ち籠める白煙。見惚れるほど美しいジクロルボスの浄化虹。強さは家庭用とは比べ物にならない。くく、人間まで口を押さえて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っているではないか。
 これで……これで漸く私は雑蟲を完全に駆除することが出来たのだ!!
「ハヒャハハハッッ、ヒャァァッハァァッ!! ュフワヒャァァァァッハァアアアアアッッハハハハッアヒャアヒャビャビャアビャヒャバババブァララブァァァァァァッッッ!!!」
 さぁて、今日は会社の休暇を取った。ハンモックで一眠りでもするかぁ。
 何だ? パトカーが大挙して押し寄せてきたな。中からお巡りがぞろぞろと……。
 っ! 傷害、拉致暴行、並びに猥褻物陳列罪で逮捕だと!? ふざけるな、昆虫の不法侵入は取り締まらない癖に何を言っている!! ええい、そんな何処に蟲を飼っているとも知れない紺色の制服で上がってこようとするな!
 ドンドンドンドンッッ!!
 私は慌てて玄関に立ち塞がった。蛮声をあげた警官隊は持参の梯子を使って高みにある玄関に取り付き、乱暴に扉をこじ開けようとしてくる。さては貴様等、雑蟲の手先か。あいつらを力ずくで侵入させようというのだな! 必死で入り口のノブを押さえる私だ。荒々しく背後の連れ合いに呼びかける。おい、何か武器になりそうな物を取ってくれ!!
 ドスンッッドスンッッ!!
 繰り返される体当たりが扉を内側に撓ませる。悔しい、悔しいっ。そんな害虫を見るような目で私を見るな!! 社会の敵みたいな扱いをしやがって!!!
 音が激しいものだから、やたらと耳が痒くなってくる。まるで細い毛で擽られているかのようだ。緊張の余り、喉も少しいがらっぽくなってきた。
 妻が息を呑んで狼狽えている気配。大丈夫だ。こんな奴ら、すぐに追い払ってやる!
 ん……、これは彼女が腰のスカートを慌てて脱ぐビニール擦れの音か?
 あの棚をまさぐる音には聞き覚えがある。林檎などを剥く際に、戸を開けて果物ナイフを取り出す音だ。透明過ぎてなかなか見つからず、手探りになってしまう音……。そうだ、急いでくれ、大至急っ。そろそろ押し破られてしまうっ!
 目的の物を探り当てた女房が、私の背中に駆け寄ってきて泣きながらすがりつく。
 どうした? 早く渡してくれっ。何だと? 何を口走っているっ? あそこの中に?!
 ――待て! その薄く研がれた刃で何処をほじくるつもりだ!?
 衆人環視の中、私の後ろで狂った絶叫をあげた妻が、よたよたと数歩後ずさる。そして激しく腰を振って凶器を脚の間に突き立てたようだった。迸った鮮血が私の足元にまで広がってくる。
 ああ、赤くしてしまうのは駄目だ。光が遮られて、裏側に奴らが……。
 心配で堪らないが、私が無事に彼女の元へ辿り着いて行為を止められるかは分からない。何故ならば、目撃してしまったからだ。懸命に両腕を扉に突いて侵入を押し留めている警官共の形相の手前、透き通った平面に映った自分の顔を。上瞼から睫毛に混じって幾本も、びょんと長い蘇芳色の触覚が生えているのを。嗚呼、目の裏がゴロゴロとする……。
 何処かで絞め殺された鶏が、断末摩の絶恨を放った。俄におどろおどろしい甲走った鳴き声が響き渡り、硝子張りの我が家を震わせてくる。よく聞けば、それは、粘ついて蠢くダマを作り始めた私の唾液の、飲み込みきれず菌糸状に張って咽頭を塞いでいる箇所の隙間から、洞窟の割れ目を吹き抜ける突風の如く搾り出されている自身の呼気であった。
 同時に突如、生暖かい瘡蓋のような物が顔面に被さってきて、視界を塞がれる。考えるまでもない。これは、極度の恐怖で巌の如く強張った、自分自身の両掌だ。薬剤の汚染でひび割れた爪が、奥の異物を追い出そうと、瞳の虹彩の表面を虚しく削る。
「グァ……ァァァァァァァァッッッォォオオオオオオ…………ッッ!! ヅ――ァ、ァピィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッッッ?!!」
 気がつけば、不逞な圧力に逆らっていた腕を離してしまっている。が、最早、衝動的なこの一連の動作は止めようのない不可逆の領域に入ってしまっていたのだ。
 ゴガンッ!! ついに玄関が破られた。雪崩れ込んでくる捕縛隊。身を翻して洗面所へ飛び込もうとした私をあっという間に組み伏せて、床に押しつけてくる。待ってくれ、先に先に、せめて先にあそこの剃刀を取らせてくれ……! 頼む、頼む頼む頼む……っっ!!
 ――畜生、まだ避難先はあったのか!!!
 眼球の裏にいて姿は視神経を通らない筈なのに、奴の嗤いが脳裏に描き出された。官憲に囚われ、これから自傷行為の一切を禁じられるであろう私達を嘲笑う。
 やはり八つより眼が多い――。
 


○修正点
・全体的に句読点が少なかったり、読み辛い長文が有ったりしたのを、ちょこちょこと修正。
・「蛭状の口吻で以て」→「蛭状の口吻でもって」
・「その嫌悪感との実に六十年以上にも渡る付き合い」→「その嫌悪感との実に六十年以上にも渡る膠漆の付き合い」
・「人間様の手間を取らせ」→「人間様を手間取らせ」
・「頭部が千切れて芝生に飛んでいた八つ眼の死骸が、」→「千切れて芝生に飛んでいた八つ眼の死骸の頭部が、」
・「殺虫剤のシャワーを噴射し続けた。」→「殺虫剤のシャワーを御馳走し続けた。」
・「爪と肉の隙間に染み込ませてくる。」→「爪と肉の隙間に沁み込ませてくる。」
・「互いに意識」→「互いを意識」
・「つるつると滑って昇れず」→「つるつると滑って登れず」
・「ぶよぶよ膨れ上がった」→「ぶよぶよと膨れ上がった」
・「結局、頓挫した方法であるが。」→「もっとも、連中の鼻っ柱ほどの成果は得られず仕舞いであるが。」
・文章追加「チリチリと舞う粒子に〜〜肝を冷えさせられる光景。」+「あたかも、マングローブ(海漂林)の〜威容を誇示しているかのようだ。」。自講評で指摘していた部分の補強。
・文章追加「〜犇めかせて。『腐った熊手の歯に、眼球じみた球体関節を付け加えたような枯れ枝が、力んでいる臍の隣辺りを擽ってきている。』私と腹を〜」
・「この『地図』共が」→「あの『マスゲーム』共が」
・「私はあの悪夢で」→「私はあの悪夢の中で」
・文章追加「思えばイカロスは〜〜理想郷を打ち立てて見せよう。」。自講評で指摘していた部分の補強。
・「画期的な新築が完成した。」→「果たして画期的な新築が完成した。」
・「両手を添えて顎の辺りに持っていた茶碗をダイニングテーブルに降ろす際に、」→「両手を添えて顎の辺りに持っていた茶碗を、一息ついてダイニングテーブルに降ろす際に、」
・文章追加「何処かで絞め殺された鶏が〜〜不可逆の領域に入ってしまっていたのだ。」。自講評で指摘していた部分の補強。


・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/74.html

○遺伝元
・自己中心 (裏道で人間が死んでいる)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/9.html
・肥後守 (刃物、繋がり。後、好きな作品なので繋げたかった)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/44.html
・癒蟲 (癒蟲と雑蟲で題名が被ったので)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/66.html
 
posted by 謡堂 at 18:36| ◆聊枕百物語

百物語・抱き芋虫 /語り手知らず(怪集/2009、投稿)

 
 はい、いらっしゃいませ、奥様! 抱き芋虫をご所望でございますか?
 商品の陳列ハンガーはこちらになります。勿論、無排泄処理済みの。
 アハ、初見のお客様はここをご覧になると、少し怯んでおしまいになられるようですね。ずらり一面に大きな芋虫が吊されて、嫌がってくねっている光景は、確かに。ですが、ご心配には及びません。全て健康かつ活動的な個体ながら、噛んだりは致しませんよ。ほら、このように当店では轡を嵌めて販売いたしておりますので。必要な餌もそこから注入されますから、定期的に菜食パックの筒を取り替える以外のお手間は決して取らせません。
 サイズは如何なさいますか? 最近の研究では抱いて横になった時に膝を曲げられるくらいの丈が、姿勢が楽で良いとされているようですが。はい、Lサイズでございますね。
 硬さは……はい、逞しい抱き心地がお好み、と。
 ではこちらをお勧めいたします。両手両足を切り落としたジャパンの雄性、ボディビルダーの経験が少々ございまして、厚い胸板の感触は必ずお気に召して頂けるものと……。
 

・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/86.html

○遺伝元
・最期のくちづけ (芋虫、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/52.html
・昆虫の定義 (昆虫の定義、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/63.html
・新説ミミズバーガー (イモムシと、都市伝説(こっちは達磨人間)、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/64.html

【備考】
 「肥後守」と繋げて、捕られた獲物の行く末の一つ、とした方が良かったかもしれない。
 既に岩底の雑蟲で繋げていたので、しなかったけれど。
 
posted by 謡堂 at 17:44| ◆聊枕百物語

百物語・水虫と人面疽 /語り手知らず(怪集/2009、投稿)

 
 おう、人面疽の熊八ってもんだ。よろしくな。
 こん間、呪詛に呼ばれてよぉ、とある人間の右足の裏に憑いたんよ。したらそいつ、酷ぇ水虫で。冗談じゃねぇ。爪先に近かったもんだから、瞼は痒い、鼻ん穴はムズムズして水っ垂れが止まらねぇ、唇の皮なんかベロンベロンと剥けやがる。てめぇ、笑ってねぇで想像してみろや。日中、蒸れた安全靴ん中に足ごと突っ込まれてる俺っちの苦境をよ。
 手がねぇから掻くことも出来やしねぇんだ。
 そん時ゃ古式ゆかしく恨み言ぉ呟きながら広がってって、そのまんま俺っちの居座った右足が頭、奴さんの頭が右足、ってな具合に躯を乗っ取ってやるってぇ趣向だったんだが……、相手の腰辺りから自分の腕が生えてきた時ゃぁ本当に快感だったぜぇ……。一日中、痒い所を掻きまくってた。
 でもな、いいことばかりじゃねぇ。あろうことか、水虫まで俺っちの成長に合わせてついてきた。全身の皮膚に広がり始めやがったんだ。
 逆に、躯を奪われる当人は清々しい表情してやんの。見ろよ、この右足の裏の豆粒。これが、そいつ。痒みは全て俺っちが引き受けてっから、こいつには伝わらねぇ訳よ。
 ……あん、何か言ってんな。んだと? てめぇがてめぇで儀式して? わざと……自分の足ん裏に俺っちを取り憑かせたってのかぁっ? 水虫から逃れる為だけに、こうなることが分かってて?! っざけ……おい、幸せそうな顔して消えてくんじゃねぇよ!!
 ……ちっ、完全に俺っちに吸収されちまったな。こうなると、この躯は晴れて人面疽の物ってことになんだが……、畜生! 痒い!! 肌は菌でふやけきっちまってグズグズ、眼球も濁って物が良く見えねぇ。立てば全身痒みの焼き鏝刑、座れば膝ん裏と尻ん谷間でカイカイダンス、インキンタムシィぶらっ下げて歩く姿は水虫ゾンビっとくらぁ!
 堪らず爪で掻きゃぁ、血が滲むわ膿が出るわ。治る時の瘡蓋が余計に痒くなるし……、気ぃ狂うぜ……っ!! 最近じゃぁ魚の目まで併発して、肌やら腹やらゼニゴケみたいによう。こっちは服ぅ着てると痛ぇんだ。
 ヒヒヒ、俺っちも誰か仲間の人面疽ぉ喚んで、足の裏にひっつけてみっかなぁ。お前ぇとか。
 それとも、こんな席に何食わぬ顔で混ざって妖怪の怪談話ぃ盗み聞きしてる、そこの人間とかよ。
 
 
・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/97.html

○遺伝元
・消しゴム (消える事、繋がり。後、好きな作品なので繋げたかった)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/57.html
・ループ (ループ展開、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/58.html
・セックスと呪いと馬鹿娘 (人面疽っぽい物、繋がり)
 http://www.kaisyu.info/2009/list/89.html
 
posted by 謡堂 at 17:36| ◆聊枕百物語

百物語・産蟲胤紀「虫合わせ」 /語り手知らず(怪集/2009特別編、投稿)

 
・掲載ページ
 http://www.kaisyu.info/2009/list/151.html

・言い訳
 告知から〆切りまでが70時間という不意打ち募集企画、特別編に出した物。「本編に出し損ねの作品なども見せてみろ」チックな言い方だったのを真に受けてみたのと、遺伝ルールを使っているので今回を逃すと発表の機会が永久に無さそうなのとで、投稿。
 講評で評価してくれた方々には真に申し訳ないことながら、時間切れの未完成品。要、推敲継続。アイディアや話の流れには、そんなに問題はないとは思うものの、各部の描写が大分不出来だな、と。
 我慢と興味が続けば、ふみほのパートまでは読めないことも無いことも無いかも知れない。
 
posted by 謡堂 at 17:25| ◆聊枕百物語

2009年12月05日

(「怪集/2009」投稿)と書いてある話について

 
 諸々の事情で、フリー編集者、兼怪談作家の加藤一氏が企画主宰している「怪集/2009」(竹書房のHPで宣伝していたアレ)という、匿名制の創作恐怖小説コンテストに参加しておりました。

 大会終了後、応募作品を各参加者が自サイト等で公開するのは自由とのことでしたので、傑作選収録から漏れた作品をアップしています。

 ちなみに出題テーマは「虫」です。

○用語の簡略紹介
・因果を繋げる、連鎖をさせる、遺伝をさせる
 公開中の他の応募作と、設定上の接点を持たせること。必須。

 詳しくは、大会HPの「怪集のルール」などをどうぞ。
http://www.kaisyu.info/

○このブログに上げる時の掲載方法
 概ね原文通りですが、一部、気になった点を修正したりしています(作品毎に別記)。

 また、因果元と遺伝先についてですが、作品投稿時の状態を再現ということで、因果元のみを記載しています。遺伝先が気になる方は、大会の掲載ページや「最新因果地図(画像)」などをご覧下さいませ。

○このブログへ上げる時期
 大会が終わった途端に全部回収するのも、感じが悪い気がするので、まぁ、そのうち。
 
posted by 謡堂 at 01:35| ◆聊枕百物語

参加理由の一つ

 
 ちょいとね。このブログで得意げに発表している作り話が、本場でどの程度通用する物なのか、試してみたくなったのさね。
 
posted by 謡堂 at 01:29| ◆聊枕百物語

2009年11月30日

百物語・のっぺらぼう /パルセイズ (半龍神のきっついお嬢)

 
 あたしが人間の振りして寺子屋に通っていた頃の話よ。

 用事があって、夕暮れの山道を歩いていたのよね。
 そしたら、のっぺらぼうに出逢っちゃった。

 大抵の妖怪のやることなんて、変質者とそう違わないわ。
 最初、道の真ん中に腹掛け姿の飛脚が、両手で顔を覆って突っ立っててさ。「何かなー」と思いながら近づいてったら、すれ違い様にベロベロバー! 指を広げて、のっぺら面をぐいぐい、横合いからこっちに押しつけてくる訳。

 嗤っちゃうわよね。こちとら、道を急いでんのよ。
 生っちろい顔を鷲掴みにして、電撃ぃ撃ち込んで焼いてやったわ。ハン!
 最近じゃあ、アイアンクローって言うの? あれよ。
 そいつの顔って白玉みたいな感触でさ。指が第一関節まで食い込むの。ハリセンボンの棘を柔らかくしたような、大根のヒゲ状の物もちょこちょこと生えていて、曲げた指の付け根に当たって少しくすぐったかったっけ。
 そしてそこから、バチバチバチィッ! ってね?

 いたいけな少女様をからかおうなんざ、太ぇ奴。弾かれたように仰け反って、ひっくり返ったかと思うと四つん這いで逃げてっちゃって。いい気味だった!


 んで、後日。同じ山道を昼に通りかかった時。
 傍の茂みで、雄の狸が股座をこんがり焼け焦がせて死んでいたわ。
 両腕で、ふぐりのあったらしい位置を押さえて。

 洗ったわ。近くの小川に駆け込んで、皮が摩り切れるかってくらい手を洗ったわ……。
 ……っンの○○。どこを使って、のっぺらぼうに化けてた訳よ。
 
posted by 謡堂 at 12:45| ◆聊枕百物語

百物語・のっぺらぼう 後日談 /パルセイズ

 
 その晩のことよ。お山に季節外れの雷が落ちて、山火事になっちゃった。皆はこの世の終わりみたいに嘆いていたけど、あんな不埒な真似をする狸がいた所なんて、燃え尽きて禿げ山になって当然よね? 誰にも文句は言わせないわ。
 
posted by 謡堂 at 12:38| ◆聊枕百物語

百物語・古狸変化百選「のっぺらぼう」 /(裏竜宮の蔵書より。指南書)

 
 壱 逆立ちをすること、糸引き垂れる蜘蛛の如く。
 弐 陰嚢を膨らませること、金網で熱されし餅の如く。
 参 後ろ足を手として使うこと、山猿の如く。
 肆 これらを踏まえし後、体毛活操、幻惑術理、技と心魂尽くして人を真似るべし。

 以上即ち、のっぺらぼうの如し也。
 
posted by 謡堂 at 12:30| ◆聊枕百物語

2009年05月25日

百物語・実話二 緑色のジム /謡堂

 
 子供の頃の話です。
 当時、私は百円で回せるSDガンダムのガチャポン集めに嵌っておりました。
 今ほど技術は発展していなく、彩色もされていなければ、関節が可動でもない、代わりに一カプセルに二つ入っているという古い品物です。
(興味のある方は「ガン消し」等のワードで画像検索すると、実物が見れるかも)

 そして、寝床の敷き布団の隣に適当な積み木を立てて石碑群のような舞台を用意して、その上に彼らを乗っけて戦わせる(脳内で)という高尚な遊びを嗜んでおりました。
 一つの柱に一人か二人、他の足場の連中と撃ち合いをさせるような感じで。
 近接武器しか持っていない人は、相手の足場までジャンプしていって斬り結ぶのです。

 その際に、常々不思議に思っていたことが一つ。

 朝起きてみると、決まって何体かの人形が、乗せていた積み木の上から床に落ちて転がっているのです。ちゃんと寝る前に、正義と悪のチームに分けて布陣させておいたにも関わらず。

 勿論、深夜工事や道路を通るトラックの振動、私の寝返りetc、人形が落ちる普通の理由は幾らでも挙げられます。が、空想癖のある子供としては、「人間が寝静まっている間に戦闘が行われた結果」に思えてなりませんでした。ガチャポン戦士よりも遙かに倒れ易そうな、縦にしていた足場の長方形のブロック等自体には、何事もありませんでしたしね。

 いっつも緑色のジムが落ちていたのも疑念に拍車をかけます。あのあんこ型の体型で頻繁に彼だけの重心が、ずれたり崩れたりするとも思えないのですが……。
 
posted by 謡堂 at 23:23| ◆聊枕百物語

百物語・実話二 緑色のジム 販促補足 /謡堂

 
 話は変わりますが、「デジタルギャルズパラダイス フィギュアコレクション 二次元ドリームヒロインズ」、今野産業株式会社様より絶賛発売中です。お値段ワンコイン、五百円。
 夜中にこっそり動き出して、小さな身体で夜伽やご奉仕をしてくれることもあるかも?
 乱暴に扱っても繊細に扱っても喘いじゃいそうなので、カプセルから取り出す時は、周囲の人通りや窓の開閉に気をつけて!


※今野産業株式会社様や販売元のmillennium様のホームページが見つからなかったので、商品紹介等のリンクは無し。もし失礼なことに見落としがありましたら、教えて頂けますと幸いです。
 下記のは見つけましたけれど。
 http://www.techno-city.sumida.tokyo.jp/cgi-bin/sumida/guide/dt.cgi?id=00855
 
posted by 謡堂 at 23:19| ◆聊枕百物語

2009年01月31日

百物語・二人の妊婦 /ヤキナ・オブゼ(の童話) (シニスター・ソワレ)

 
 ある所に二人の妊婦がおりました。
 一人は富豪の、もう一人は貧民のです。
 人知れぬ荒野での出来事です。
 そこは食料になるような物は何もなく、飲み水を調達する当てもない場所でした。

 富豪の妊婦は飢えておりました。
 目的地へ向かっている途中で、持参していた食料が尽きたのです。
 このままでは栄養が足りなくなり、お腹の子を産むことが出来ません。
 と、その時。違う方角へと向かっている貧民の妊婦とすれ違いました。
 その腕に抱えられているパンを発見して富豪の妊婦が目を輝かせたとして、誰が責められましょう。普段口にしたこともない粗悪なパンでしたが、背に腹は替えられないのです。
 彼女は貧民の妊婦に頼み込みました。
 どうか、産まれてくる我が子の為にそのパンを譲ってくれ、と。

 貧民の妊婦は思いました。
 このパンは我が子を産む栄養をつける為の物。他人に渡す訳には行かない。
 断ろうと彼女は口を開き――、

♪ 道化師 ひょいと顔を出し 背後から貧民の妊婦の耳元に囁きかける
((おっと、お待ちなせぇ、お腹のおっきなご婦人さん。薄情な真似ぁ、しちゃぁいけやせんや。他所の子だって可愛いざんしょ? 救いの手も差し伸ばされずに見殺しにされちまう程の、どんな罪があるってんですかい。産まれてくるアンタのお腹のお子さんに胸ぇ張る為にも、ここは一肌脱いで、両方の子供に日の光を拝ませてやろうじゃあ、ありやせんか!))

 ――。断ろうと口を開いた貧民の妊婦でしたが、それもそうだと思い直し、どうぞ、とパンを半分に割って片方を差し出しました。
 富豪の妊婦はお礼にと、持っていた金塊を削って、半分差し出しました。
 二人はそこで別れ、別々の方角へと去っていきました。

 荒野を抜ける時、二人は同時に出産しました。
 生まれた子供は――、どちらも未熟児でした。長くは生きられそうもない。


 貧民の妊婦はその子を大切に育てました。

 富豪の妊婦はその子を捨て、健康な二人目の子供を産みました。


 数年後、とある町での出来事です。
 食物も水もそれなりに溢れ、貧富の差もあるごく普通の平和な町でした。

 ある日、道を通っていた貧民の妊婦は、偶然、表通りのカフェテラスで友人と談笑している富豪の妊婦を見つけました。その裕福で幸せそうな姿に妬みを覚えはしたものの、もう自分には関係のない人だと思って通り過ぎようとした貧民の妊婦です。
 が、本当に偶然、富豪の妊婦の言葉を耳にしてしまったのです。
「昔、薄汚いパンを食べて、子供を産み損ねた。もう二度と、あんなパンは食べたくない」

 踵を返した貧民の妊婦は、テーブルのナイフを掴んで富豪の妊婦に飛び掛かりました。

 おやおや、周囲の人に取り押さえられてしまいましたね。巡回判事まで現れて、妊婦を傷つけ店を荒らした罰として、強制労働を言いつけられてしまいました。


((ゲタゲタゲタ!))
 この世ではない何処かにて。この世の者とは思えない怪物が腹を抱えて嗤っています。
 愉快痛快、それ拍手喝采、と。
 姿形こそ違え、それは、あの道化師でした。

 おっと、呪いの言葉を吐き散らす貧民の妊婦を興味津々で囲んでいた群衆から、モノクルをかけた痩せた老紳士が中央に歩み寄りました。罪人に何かを握らせています。
 何でしょうか?
 
posted by 謡堂 at 10:49| ◆聊枕百物語

2009年01月01日

百物語・キャンドル ミニマム願掛け編 /パルセイズ (魔が堕ちる夜)

 
 日本語って美しいわよね。
 あたし、大好きだわ。

「アンタを騙したのよ」って言うと聞こえが悪いけど、「アンタを担いだのよ」って言うと調子が柔らかくなって、酷い目に遭わせた相手でもこっちを許せる気になるじゃない。

 ……なるわよね?

 ……なったわよね?

 ……なりたくなってきたわよね? Σ放電中Σ

 そうよ、おとなしく頷いておきなさい。それでこそ古き良き日本人ってものだわ。

 ところで験担ぎって言うのよね。縁起や先例に頼るの。
 あれって験担がれって呼ぶ方が正しいと思う訳。どうでもいいけど。
 
 で、怪談よ。ていうかお呪いの話ね。
 ハン。好きな男子より背ぇ高いってぇ悩んでる色恋ボケしたそこの女子、誕生日のケーキに群青――色は深ければ深いほど良い塩梅――の蝋燭を年の数だけ立てて、向かって右側の頭にちょんと鮮やかな黄色を塗ってから、火を灯してふっと吹き消すといいわ。

 したら上々。
 このあたし様にあやかって、ちょいと小粋に背が低くなれるわよ。




 事故に遭ってね。




 うっそ。お婆ちゃんになる頃にはね。
 
posted by 謡堂 at 08:46| ◆聊枕百物語

百物語・消されなかった蝋燭 /パルセイズ

 
 ハン、これだから、読者への便宜上仕方なく日本語喋ってます、って連中は駄目ね。
 ここまで百物語をしてきて、誰も話し終わった後に蝋燭を吹き消していないじゃない!

 あんま伝統文化舐めんじゃないわよ?
 特別にあたしの有り難い体験談を披露してあげるから、しきたりを破る恐ろしさを心に刻んで、古来よりの存在に対する畏怖の心ってのを取り戻すといいわ。
 ……ま、ずぼらだった連中はもう手遅れだけどね。

 ところで、何で百物語で百本も蝋燭を吹き消さなきゃならないか、知ってる?
 単に何話話したか数えるのに便利だからとか、段々暗くなっていくのが怖くて面白いからとかって理由じゃないの。土台、人間風情が怪異見たさに儀式を行うなんて身の程知らずの極みでしょう? だから、呼び出した何かや前座扱いで語った妖怪変化の怒りに触れて殺されないように、予め自分の命、の身代わり――まさか蝋燭が人間の命の比喩に用いられるなんて説明、しなくていいわよね?――を差し出しておいて、この通りですからどうかお許し下さいって命乞いをしておく必要がある訳よ。土下座と同じ感覚ね。地べたを這いずる虫けら共にはそれでも全然足りないけれど。
 そんな説は聞いたことも無い?
 ハ、中身スッカスッカのへちま頭の分際で糞偉そうに吹かないことね。
 他ならぬ、この雷粧姫様がそう受け取っている。だから、百物語で呼び出されても、きちんと蝋燭を吹き消していたら命だけは取らないでおいてあげるわ。徹底的にビビらせてこちらも愉しませて貰うけどね。

 さぁて本題。怪異の逆鱗に触れた人間が酷たらしく死ぬっていう愉快なお伽噺よ。
 むっかし事情があって人間の寺子屋に通わされてた時にさぁ、女の子で集まって百物語をしたのよね。先生の許可を貰って夕刻から集まって、普段は文台並べて読み書き算盤を習っている座敷に布団を敷いて、車座んなって中央に幾重もの円にして蝋燭立てて。
 きっちり百本。商人の娘がいてさ、高いもんなのに、よくも集まったもんよ。

 なかなか楽しかったわよ? 皆可愛いあたしの舎弟だからさ、雰囲気を出してあげようと親心を出して、十話進む毎に一回くらいの割合で、近くに雷を落としてやったの。ガラガラッ、ピシャーン! ドンッッ!! ってね。途中で止めようなんて言い出す裏切り者が出ないよう、百物語を半ばで投げ出した奴らの悲惨な末路を直々に聞かせてやったりもして。
 いやぁ、盛況盛況。あたし以外に七人居たんだけど、全員ぶるぶる震えて肩を寄せ合って涙で顔をくしゃくしゃにしてさぁ。ほんと見物だったわ。それであたしはこう言ってやるの。

 ――ハン、今ので六十九話目。次の話が終わったら、また雷が落ちるって寸法よね。
 ――ね、ねぇ、さっきから、この季節に雷様が鳴るなんておかしいよ……、音も何だか段々ここに近づいてきてるみたいだし……っ。もっ、もう、やめよう? ね? ねっ?!
 ――それで、全員揃ってあの世に引き摺り込まれるって訳? あたし、嫌よ。続けましょうよ。ほら、次はそこのアンタの番じゃない。
 ――ぅ、うん、話はぁ用意してきてっけど……、あたいもこわいべよぉ……。
 ――そうならなきゃ意味ないわよ。あぁ、そうだ、こんな怨霊の話、知ってる? 百物語の参加者で、集まる途中に命を落とした奴が成るの。幽霊の分際で何食わぬ顔で座に加わって来てさぁ……、色々あった挙げ句に出席者達は後になって報されるのよね、一緒に怪談で盛り上がっていた奴が、その晩には堀に嵌って死んでいた筈だって……。
 ――質の悪いのになると……、あれこれ理由をつけて怪談会を途中で止めさせようとするそうよ。他の連中が迂闊に説得されて腰を上げると、前の番で話した通り、途端に地獄の閂が……っ、もしかするとこの雷ぃ……も……っ!(驚かそうと細腕を広げるあたし)
 ――ヒィッッ!! 鳴ったあっっ、またゴロゴロって鳴ったよぉぅっ!
 ――おっと危ない。ちゃんと左回りの順番を守らなきゃ、祟られちゃうわ。ところで何で左回りだか知ってる? それはね。死人に着せる装束が左前だか……、
 ――春ちゃん! 小春ちゃん! もうやめてええええっっ!!
 ――は……る……ちゃ……?! 障子に映った、影……ッ、角っ、生えてる……っっ!!
 ――さぁ? 見えないわ。早く次の話を始めなさいよ。

 ちなみに小春ってあたしの人間名ね。姓が必要な時は立ノ宮(たつのみや)。
 ハン、抹香臭いったらありゃしない。

 で、最後の蝋燭が消えて真っ暗になった時に、おもむろに龍神としての正体を現して、少しだけ威かしてから一人攫って隠しちゃった。
 そのまま後で酒の肴に頭からばりばりやってやるのも魅力的だったけどね。神隠しだの人死にだのを出すと騒動になって面倒そうだから、パニクってるご学友を適当に言いくるめて、でっちあげの呼び戻しの儀式をさせて、連れてったのを返してあげたの。そしたら、何を勘違いしたのかその子たち、あたしを密かに崇めるようになっちゃった。ま、万事丸く収まってるんだし構わないわよね。子犬が親犬を殺した人間に育てられて懐くみたいで、本当に可愛いわ。市井で暮らして人間からの信心の集め方を学んでこい、っていう悪龍妃の課題も達成できたことだし、有意義な夜っちゃぁ、有意義な夜だったのよ。

 ……あたしはそれで満足してたから、それ以上何かをする気は無かったんだけどね。
 困ったことに話が続くのよ。

 その時、そそっかしいのがいて、自分の話が終わった後に蝋燭を消し忘れたの。
 半年後だったっけ、そいつは流行病でコロリと逝っちゃった。
 何故だか、その屍を荼毘に付した火葬場では、途中で火が三回も消えたそうよ。

 その時、次の番だった女の子。
 自分の話の後に、前の蝋燭が消されていないのに気がついて、二本同時に吹き消したの。
 やっぱり半年後だったわね。道を歩いている時に家の外壁に立てかけてあった材木が倒れてきて脳天に見事に直撃してさぁ。お陀仏。割れてぱっくり開いた頭から流れ出した血が、逆立った髪の毛にこびり付いて固まって、まぁ、炎の灯った蝋燭のようにも見えたわね。いつも洗いすぎで色の薄れた白っぽい着物でいる奴だったし。
 ……消さなかった分は取り立てられて、消しすぎた分は返されるってこと? 案外良心的。

 その時、あたしは思っていたの。
 あの百物語で呼び寄せられた妖のどいつかの仕業だろうとね。
 人間が怪現象の前に倒れ伏すのを見るのは気持ちがいいけれど、大した痛手じゃなかったとはいえ、あたしにとっちゃあ、意のままになる子分をみすみす二人も奪われた訳で、気に入らない話じゃない。下手人に文句の一つも付けてやろうと思って、裏竜宮の権威に物を言わせて方々を捜して回った訳よ。だけど、全然手がかり無し。お手上げ。ご同輩の仕業じゃぁ無かったみたい。
 ……だったら罰を与えたのは何よ。気味が悪いったら無かったわ。

 ま、こういう事があるから気をつけろってぇ、徳のある訓話にはなりましたとさ。
 めでたしめでたしね?


 あによ。結局、不思議な力の働いていない、偶然の出来事だったんだろうって?
 ……へぇ。
 アンタ、この雷粧姫様の見立てが外れてるってぇ言いたいわけね、いい度胸じゃない。
 だけど残念、おまけの話を聞いたら、その解釈は怪しくなるわよ。
 恥だから隠していたけど、聞かせてやるわ。

 同じ時期、二人のお通夜が終わって寺子屋に日常が戻ってきた頃の話よ。
 珍しく一番乗りしたあたしの文台に饅頭が二つ、置いてあったのよ。
 まだ人気のない部屋で、盆に乗せてぽっつりと。
 本当は甘い物なんて嫌いなんだけどね。供えられた物は残さず頂く主義だから、ありがたく手を伸ばさせて貰ったわ。手習い仲間の誰かが気を利かせたんだろうと考えてね。

 胃袋に収め終えてから、はたと気づいたの。
 流石にゾッとした。

 その饅頭、あたしがあいつらの棺桶に入れてやった奴じゃない。貧乏人にゃさぞかし御馳走だろうと、お情けで。……燃やされて、とっくに灰になってなきゃおかしいっての。
 間違いないわ。見慣れすぎてて気にも止めなかったけど、鱗紋入れた裏竜宮の菓子なんてのが、一介の寺子屋風情に何の気無しに置いてある筈がないもの……。

 ったく、香典返したぁ、真似がしけてんのよ。
 何よりも、約束事を決めて従わせていいのは強い方だけだってこと、分かってないわね。
 
posted by 謡堂 at 08:37| ◆聊枕百物語